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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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夜明け前の馬運車




 2月の最後の金曜、夜明け前の4時半。厩舎の灯りの下で、奏が肩まである長い手袋をはめていた。前の日の夕方に研修先から1週間の休みを取って来たばかりだというのに、もう獣医の顔をしている。一つ結びの後ろ髪が、動くたびに灯りを拾って揺れた。


 ツキノシズクは馬房の奥でこちらの気配に耳だけ回して立っていた。奏が声をかけると、ゆっくり体を寄せてくる。馬にだけ向ける声だ。低くて、やわらかい。


「シズク、ちょっとだけ我慢してね」


 左手が尾の付け根に回り、右手がゆっくり入っていく。シズクは一度だけ足を踏み替えて、それきり動かなかった。俺は馬房の柵に肘をかけて見ていた。宮田さんが後ろで黙って、エコーの機械を抱えている。


 触診は数分で終わった。奏が腕を入れたまま、機械の画面を覗き込む。白黒の映像の中に、丸い影がいくつも並んでいる。奏の指がその一つをなぞった。


「この大きさなら、もういつでも」


 声が切り替わる。さっきまでの馬に向けた声じゃない。獣医の声だ。


「いつでもって」


「排卵が近いってこと。この大きさまで育ってるなら、あと半日もすれば抜ける。抜けてからじゃ遅いの。卵胞がはじけてからじゃ受精のタイミングを外す。今のうちに運んで、着いたらすぐ。分かった?」


 奏は画面を指で何度も叩きながら、息継ぎもせずに言い切った。半分しか頭に入ってこない。だが獣医がそう言うなら、それが正しいんだろう。


「……分かった」


 宮田さんが馬房の灯りを指先で示した。年末から、日が暮れても消さずにいる。日長を長く感じさせて春を早める、繁殖牝馬の定番のやり方だ。俺はそれをゲームで言う「時間を早送りする裏技」だと思っている。


 奏が画面から目を上げた。


「今日。朝のうちに」


 サザナミの馬房の戸を開けると、サザナミは飼い葉桶のほうへ鼻を向けたまま、こちらを見もしなかった。ふだんからおとなしい馬だが、今は診られる側の顔をしている。奏が同じ手順で手袋をはめ直し、尾の付け根に手を回す。サザナミは尻尾を一振りして、あとは静かだった。


「まだ。あと何日か」


 奏が手袋を外しながら画面を消す。声は淡々としていた。遅れている、という響きはない。ただ順番が来ていないだけだ、という言い方だった。


 俺はパーカーのポケットに指を入れた。万年筆の軸が指先に触れる。冷たい。握りはしなかった。あの中に卵胞の欄はない。何日後に、という数字は俺の目には視えない。それは奏の仕事だ。俺が覗いても意味がない。


 宮田さんがエコーの機械を抱えたまま、黙って馬房の外へ出ていった。戸口で振り返りもしない。しばらくして外から馬運車の扉が開く音がした。


 まだ暗い空の下で、馬運車のエンジンが低く唸りはじめた。


◇


 空がすっかり白んだころ、馬運車がカムイボシ牧場の門をくぐった。6時すぎ。門の先に、知らない牧場の馬運車が2台、すでに停まっている。窓の外の温度計は氷点下のままだ。


 庭先で牧場主が腕を組んで立っていた。厚いコートの襟を立て、吐く息が白く流れる。宮田さんが窓を開けると、牧場主は中を覗き込んで短く言った。


「遅い」


 俺は真ん中の席から身を乗り出した。


「時間通りです」


 牧場主は何も返さなかった。5年前、初めてシズクを連れてきた朝も、確かこれと同じやりとりだった。庭先で腕を組んで、遅いと言う。時間通りですと返す。あのときは借金まみれで、種付け料を払えるかどうかもぎりぎりだった。今は馬運車の中にダービー馬の母がいる。それでも、この人は同じように庭先で待っている。


 若い衆が厩舎のほうから試情馬を連れてきた。首を上下に振りながら、柵の向こうで小さくいななく。宮田さんが馬運車の後ろを開けると、シズクがゆっくりと降りてきた。


 シズクが柵に近づく。試情馬の鼻先へ、静かに首を伸ばす。耳が前を向き、尾がゆっくり持ち上がった。凍えた空気の中で、馬の体温だけが湯気のように白く立ちのぼっている。


 牧場主が短く「よし」と言った。


 奏がシズクの尾に包帯を巻き、後ろ脚に保護のブーツをはかせた。手早いのに、ひとつひとつが丁寧だ。馬が脚を踏み替えるたび、奏は手を止めて待つ。俺は黙って見ていた。宮田さんが引き手の位置につく。


 柵の外には順番待ちの牧場の人が何人も立っていた。そのうちのひとりが、隣の男へ声を落として言う。


「あれが、ダービーの……」


 続きを聞く前に、俺はもう半歩後ろへ引いていた。5年前と同じように、柵の外へ下がる。


 牧場主はその声を聞き流した。こちらを見もしない。顎で柵の中をしゃくって、短く言う。


「……兄ちゃんも入れ。頭を持て」


 5年前は、ここで「素人は外だ」だった。同じ庭先で、同じ人に同じ声で。あのときは黙って下がった。今は、下がろうとした足が止まっている。


「はい」


 返事が一拍遅れた。


 柵の中に入ると土の冷たさが長靴の底から這い上がってきた。宮田さんが無口の横に立ち、俺はシズクの顔のそばに回る。首筋に手を当てると、指の下で太い血管がゆっくり脈を打っていた。温かい。


 カムイボシが若い衆に引かれて近づいてくる。鹿毛の体が朝の光を受けて、肩のあたりが黒く光った。シズクの耳が動く。前へ向いたかと思うと、一度だけ後ろへ倒れた。俺は首を撫でる手を止めなかった。


 シズクが小さく踏み出した。地面が微かに沈む音がする。カムイボシの鼻先が近づいて、2頭ぶんの息が白く混ざった。


 やがて牧場主の手が静かに上がる。時間にすればほんのわずかなことだった。シズクの耳が、もう一度ぴくりと動いて、それから何かを確かめるように前を向いた。


 俺の手のひらに伝わる温度が、少しだけ上がった気がした。


 牧場主が馬を引かせて下がる。宮田さんが無口を支えたまま、シズクの肩を軽く叩いた。奏が前へ出て、後ろ脚のブーツを外しはじめる。


 牧場主がぽつりと言った。


「付くかどうかは、馬が決める」


 帰りの馬運車は来たときと同じ道を西へ戻っていた。座席は3人がけで、運転席に宮田さん、真ん中に俺、窓側に奏。外はもう明るくなっていて、雪の上に朝の光が平たく伸びている。


 奏は帰りの車でも、何回も荷台のほうを振り返った。5年前は行きの車で、首が痛くならないのかと思うくらい振り返っていた。


「月曜に、排卵を確かめる」


 奏が窓のほうを見たまま獣医の声で言う。


「サザナミも、そのとき一緒に診る」


 宮田さんは前を向いたまま、ハンドルから手を離さずに「……おう」とだけ言った。エンジンの音がしばらく車内を満たした。


 荷台のほうで、シズクが一度だけ鼻を鳴らした。


◇


 月曜の朝、奏がシズクの排卵を確かめ、サザナミも診て「水曜の朝」と決めた。俺はその日のうちに種馬場へ電話を入れ、予約を取った。電話口で「ひなた牧場さんですね。ハマカゼ、水曜の朝で」と言われて、それで終わった。カムイボシの牧場の、鳴りっぱなしの電話とは大違いだ。


 水曜の朝。まだ暗い5時に、宮田さんの運転する馬運車にサザナミが乗せられた。俺と奏は宮田さんの横に並び、荷台ではサザナミが静かに立っている。発進のときに蹄を鳴らしたきり、あとは揺れに身を任せているようだった。宮田さんは前を向いたまま、いつも通りハンドルを握っている。


 日高の種馬場に着いたのは7時を回ったころだった。門の前で若いスタッフが待っていて、俺の顔を見るなり口を半分開けた。展示会で会ったあの若いスタッフだった。手に持っていた予約表を胸に当てたまま、しばらくこちらを見ていた。


「本当に来たんですね」


「はい。来ました」


 若いスタッフは予約表を握り直して、もう一度「本当に」と言いかけて、やめた。それから慌てたように門の内側へ走っていく。俺たちは馬運車を敷地の中の指定された場所に停めて、宮田さんが荷台を開けた。


 サザナミは静かに降りた。試情は手早く済んだ。柵の向こうの試情馬に、サザナミは首を伸ばして、尾を上げた。奏が尾に包帯を巻き、後ろ脚にブーツをはかせる。手順は金曜の朝と同じだ。


 ハマカゼが引かれてきた。小柄な栗毛で、歩き方がせわしない。首を前へ突き出すようにして、まっすぐサザナミのほうへ向かってくる。自分の体より大きい牝馬を前にしても、足取りは変わらなかった。宮田さんが引き手の位置につき、俺は柵の外へ下がった。


 種付けは短かった。終わるとサザナミは何事もなかったように首を下げて、足元の雪の切れ目に顔を寄せ、枯れ草を探すしぐさをした。


 俺は柵の外でそれを見ていた。サザナミに足りないのはスピードだ。こいつのAを、この馬の子に渡す。


 これで、2頭とも。


◇


 その夜。宮田さんは晩の見回りのあと、馬房の灯りをひとつずつ指先で確かめるようにして、それから黙って帰っていった。延ばした灯りの下に、シズクとサザナミの馬房が並んでいる。藁の匂いと、馬の体の温かい匂いが混ざっていた。


 奏の休みは明日までだ。帰りの馬運車で、奏はずっと何か言いかけては黙っていた。俺も聞かなかった。聞けば何かが動いてしまう気がして、窓の外の雪ばかり見ていた。


 馬房の柵にもたれて、奏がこちらを見る。一つ結びの後ろ髪が、灯りの中で少しだけほどけていた。


「研修、3月で区切る。昨日、向こうに言った」


「……そうか」


 俺はそれしか言えなかった。奏は柵に肘をかけたまま、目をそらさない。


「父に言われたからじゃないよ」


 風が厩舎の屋根を鳴らしていく。シズクが馬房の中で首を動かした。奏の耳が、灯りの下でも分かるくらい少し赤い。


「区切るって決めたのは、私」


 俺は頭の中で日を数えていた。5年前、奏が言った。「16日目にエコーで見る。付いてれば、そこで分かる」。シズクは金曜に付けたから、16日目は3月の半ば。サザナミは今朝だから、3月の後半。


 どっちの答えも、3月の中にある。


「そのあとは」


 俺が短く聞くと、奏はサザナミの馬房に手を伸ばし、鼻を撫でたまま黙った。いつもの早口が止まっている。サザナミが奏の手のひらに鼻を押しつける。奏はそれに応えるように目を細めた。俺は急かさずに待った。厩舎の灯りが、2人と2頭の影を長く伸ばしている。


「……それは、2頭の受胎が分かってから言う」

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