16日目の日曜
3月の最初の金曜の夕方、事務所で携帯が鳴った。画面に「先生」と出ている。
事務所の机で宮田さんが帳面をつけている。俺は携帯を耳に当てた。
「オーナー、今朝、外厩からアサツユを戻しました」
先生の声は丁寧で短い。声の後ろで、馬房の戸が開く音や蹄鉄が石を叩く音が薄く混ざっている。
「……どうですか」
「カイバは全部食べました。脚元も問題ありません」
俺は目を閉じた。厩舎の匂いが、電話の向こうから届きそうな気がした。先生が馬房の前に立っている。アサツユは首を上げて、いつものように人の帽子を探している。
「冬のあいだに、体はひと回り大きくなりました」
「それで、春の使い方ですが」
先生の声が一段低くなった。宮田さんが帳面をめくる手を止める。事務所の中に、紙の音だけが残った。
「金鯱賞は使いません。大阪杯へ、まっすぐ行きます」
俺は何も言わずに聞いていた。窓の外はもう暮れかけている。風が時々、窓枠を鳴らしていく。
「有馬の疲れを抜くのに、冬をまるごと使いました。間を空けて、4週で仕上げます。須賀も同じ意見です」
頭の中で、4月の阪神までの日数を数える。ちょうどいい、と思った。ちょうどいいはずだ。俺が口を開くまで、一拍かかった。
「……お任せします」
先生が小さく息を吐くのが聞こえた。電話の向こうで、馬房の戸を閉める音が遠くに聞こえる。
「テンカザクラは、金鯱賞から行くと聞いています」
ああ、と心の中でだけ返した。あちらはあちらの日程で動く。俺たちは俺たちの日程で行くだけだ。
「ハヤテノオウも、まっすぐ阪神だそうです」
俺は目を伏せた。電話の向こうの先生は、たぶん厩舎の灯りの下に立っている。
「では、また連絡します」
電話が切れた。
携帯を机に置く。伏せた画面の縁が、机の上で小さく光って消えた。奏は昨日、研修先へ戻っていて、事務所には俺と宮田さんの2人きりだ。静かだった。壁の時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
宮田さんが壁のカレンダーの前に立った。無言で、4月4日の欄を指で何度かたたく。大阪杯。その指先が、紙の上で止まる。
「……ひと叩きしてくる馬と、しねえ馬か」
宮田さんがつぶやいた。あちらは金鯱賞を叩いて、本番に臨む。こちらは本番だけに、いきなり立つ。
ブリーダー育成ゲームで言うなら、レベル上げのダンジョンを飛ばして、ボス戦に直行するのと同じだ。馬の状態は上がっていても、実戦の勘は別だ。それは分かっている。分かっているけど、口には出さない。
◇
9日後の日曜の朝、種付けからちょうど16日目に、奏がエコーの機械を抱えて厩舎に来た。
夕方の飼い付けまでに戻る約束で研修先を抜けてきて、朝の6時半には厩舎の前に車を停めていた。
宮田さんがシズクの馬房の戸を開け、無口をかけて引き手を持つ。シズクは大人しく首を差し出し、宮田さんの手のひらに鼻先を押し当てた。
奏は手袋をはめ、馬房の中へ入っていく。
「シズク、今日はすぐ終わるからね」
シズクの耳がその声のほうへ動いた。奏が尾の付け根に手を回し、腕を入れる。
俺は柵の外ではなく、シズクの顔の横に立った。首筋に手を当てて、ゆっくり撫でる。2週間あまり前、カムイボシ牧場の庭先で「頭を持て」と言われた朝のことが、指の先に少しだけ残っていた。あのときの冷たい空気と、手のひらに伝わった太い血管の脈。
ポケットの万年筆には触れない。表示に受胎の欄はない。握っても、今のシズクの体の中で起きていることは視えない。
奏が腕を入れたまま機械の画面を覗き込む。白黒の映像が、馬房の薄暗がりの中でぼんやりと光っていた。宮田さんが無口を支える手に少しだけ力を込める。
奏の手が、止まった。
「……いる」
奏の声が、馬房の薄暗がりに落ちた。
俺はシズクの首に当てた手を止めた。画面を覗き込む。白黒の映像の中に、小さくて黒い丸い影がひとつある。米粒というには大きすぎて、親指の爪くらいだ。それが子宮の中に、ぽつんと浮いている。
奏は腕を入れたまま、プローブをゆっくり左右へ滑らせた。画面の端から端へ、なぞるように。もう1つないか、探している。
「双子だったら、今のうちに片方を潰さないといけないの。2つは、お腹の中で育ちきらないから」
獣医の早口だ。説明しながらも目は画面から離れない。俺は息を止めていた。
画面が、元の位置に戻る。
「1つだけ。……付いてる」
奏が言った。俺は喉の奥で息をひとつ吐いた。声にはしなかった。大声を出せば、この丸い影が驚いて消えてしまいそうで。
無口を持ったまま、宮田さんが「……そうか」と言った。それから無口を支えていた手を離し、シズクの首を一度だけぽんと叩く。
奏が腕を抜き、手袋を外しながら、馬にだけ向ける声に戻る。
「えらかったね、シズク」
シズクが首をこちらへ回した。鼻先が俺の手のひらに触れて、そのまま離れない。湿った息が指の間を抜けていく。この体の奥に、いま親指の爪ほどの影がひとつある。そう思うと、撫でる手の力が自然と弱くなった。
奏が隣の馬房の柵に手をかけた。サザナミは相変わらず飼い葉桶のほうを向いている。
「サザナミは金曜。また来る」
もう獣医の声に戻っていた。あと1頭。その1頭がどうなっているかは、まだ分からない。奏の「そのあと」も、まだだ。
「……まず、1頭だな」
奏はサザナミのほうを向いたまま、俺と目を合わせずに言った。
「まだ1頭」
奏の声は、獣医の声と馬に向ける声のあいだくらいだった。
奏がエコーの機械のコードを巻きながら、顎で母屋の事務所のほうを示す。今日の午後、中京で金鯱賞が走る。テンカザクラが出る。それは分かっている。
「午後の、見ていくでしょ」
◇
午後の事務所のテレビに、中京競馬場が映っていた。
テレビの前に、3人がばらばらに陣取っていた。奏はソファの端に浅く腰かけて、膝の上で手を組んでいる。宮田さんは自分の机の椅子をわざわざこちらへ向け、背もたれに両腕を乗せて画面を睨んでいた。俺は立ったまま、壁に肩を預けて見ている。
画面の中では返し馬が流れている。テンカザクラだ。額の小さな星が、中京の薄曇りの下でもはっきり光って見える。馬体は冬を越してさらに厚みを増したように映る。実況が落ち着いた声で「古馬になって初戦、ここから大阪杯へ」と紹介した。単勝は1番人気だ。
俺はポケットの中で万年筆を握ってみた。画面の中の馬は視えない。分かっている。
画面の中のテンカザクラは、返し馬を終えてゲートのほうへ向かっていく。
ファンファーレが鳴った。
ゲートが開いた。
1頭が迷わず前へ出る。テンカザクラはそのすぐ後ろ、前から2番手に収まった。鞍上の手は動かない。もう折り合っている。首の角度が真っ直ぐで、無駄な力がどこにも見えない。1コーナーを回って向正面に出ると、先頭のリズムに合わせるように速度が落ち着いた。
「先頭は、ゆったりとした流れで向正面へ」
実況の声が事務所の中に低く響く。宮田さんは背もたれに両腕を乗せたまま微動だにしない。奏も膝の上で組んだ指を解かない。俺は壁に肩を預けて、画面の中の小さな星を追っていた。
3コーナーの入口で、外から並びかける影がある。テンカザクラだ。まだ手綱は持ったままだ。逃げ馬の真横に馬体を合わせて、4コーナーを回っていく。後ろの馬たちにはもう鞭が入りはじめている。画面の端で、騎手の腕が何度も上下するのが見えた。
直線。中京の坂の手前でテンカザクラの脚がひと伸びする。逃げ馬の首が下がり、半馬身、1馬身と差がついていく。
「坂を上って、テンカザクラが突き放す!」
実況が声を張った。画面の中では、後続との差がぐんぐん広がっていく。馬体の厚みが、冬を越えた分だけ大きく見える。追ってくる馬の脚色とは、もう次元が違っていた。
残り200メートルを切っても手応えは揺るがない。鞍上がちらりと右後方を振り返る。それでもう十分だと言われたような気がした。
「テンカザクラ、先頭でゴールイン! 古馬になって、まず1つ!」
着順の表示板に、確定の文字が灯る。実況が「1着はテンカザクラ。2着との差は2馬身半」と告げた。2馬身半。あの坂を上りきって、まだ突き放したままの差だ。
奏が膝の上で組んでいた指をほどいた。
「……4コーナーで、手応えが全然違った。あれはもう、位置を取った時点で勝負がついてたよ」
獣医の早口だった。宮田さんが背もたれに乗せていた腕を下ろす。
「……去年の秋の馬じゃねえな」
それだけ言ってまた黙った。俺も同じことを思っていた。今日は、外から自分で動いて、そのまま押し切った。
画面に、ウイナーズサークルの映像が一瞬だけ映る。勝負服の騎手と関係者が並び、その端に桜庭がいる。スーツ姿で、写真に収まる位置は真ん中から外れたところだ。笑っていない。ただ馬のほうを見ている。カメラはすぐにテンカザクラへ戻った。
俺はポケットの中の万年筆から手を離した。あっちは一度叩いて、その上でこれだ。
時計を見たのは奏のほうが先だった。テレビの中ではまだ金鯱賞のリプレイが流れている。奏はソファの端から腰を上げながら、もう片方の手で鞄を肩にかけた。
「ごめん、夕方の飼い付けに間に合わない。出るね」
早口だった。画面のほうはもう見ていない。宮田さんは振り向きもせず、リモコンには手を伸ばさず、黙って自分の机の帳面へ戻っていく。テレビは消さないまま、実況が次のレースの紹介を始めていた。
玄関まで送った。奏は靴を履きながら、こちらを見ずに「金曜に」とだけ言う。戸が閉まる。しばらくして、外でエンジンがかかる音がした。
車の音が、坂の下へ遠ざかっていった。
◇
その夜、晩の見回りを終えた宮田さんが黙って帰っていくと、机の上で携帯が短く震えた。画面に桜庭の名前が浮かぶ。
「見てくれたかな。テンカザクラは、去年の秋の馬じゃない」
午後に宮田さんが言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。画面を眺めたまま、少しだけ可笑しくなる。うちの無口な厩務員と、大手の御曹司が同じところに着地する。
返信はしない。有馬記念のあとに届いた「春に、また」にも、授賞式の夜の「阪神で」にも返していない。
俺は机の引き出しから手帳を出して、前のページをめくった。最後にアサツユを万年筆で視たのは、有馬記念の日、検量室の前だった。あの日、パワーがAからA+に変わった。ページの隅に、その日の日付と「A+」だけを書きつけてある。その下は、空いたままだ。
アサツユは冬のあいだ外厩にいて、今は美浦にいる。先生の電話で「ひと回り大きくなりました」と聞いただけだ。数字の話ではなく、体の話として。
テンカザクラは冬を越して、画面越しでも分かるほど厚くなった。こっちのアサツユの表示が今どうなっているのか、俺は知らない。
俺はまだ、4歳のアサツユを視ていない。




