変わらない8行
3月19日の金曜、サザナミの16日目だった。あの朝も、奏は研修先から朝の6時半に来た。宮田さんが引き手を持ち、俺はまた顔の横に立った。サザナミはいつも通りおとなしくて、奏が腕を入れると一度だけ尻尾を振ったきりだった。
「付いてる。……2頭とも」
エコーの画面を消す奏の、手袋を外す指が少しだけ急いでいた。宮田さんは無口を支えたまま、何も言わなかった。俺はサザナミの首を撫でた。この子にも、親指の爪ほどの影がある。
そのあと、居間で茶を飲みながら俺は聞いた。聞かないままにはしておけなかった。
「そのあと、は」
奏はしばらく黙っていた。それから、窓の外のまだ白い牧草地を見て言った。
「……レースが終わってから」
それだけだった。早口でもなく、言いよどむでもなく、ただ区切るように。俺は「分かった」とだけ返した。それから2週間、その話は一度も出ていない。いや、出せずにいる。
3月31日の水曜、美浦で最終追い切りがあった。先生から届いた動画を、事務所の机の上で見る。須賀が乗って、ウッドコースで併せ馬。外から並びかけて、直線で半馬身抜け出す。脚の回転が速い。首の使い方が柔らかい。動画の中のアサツユは、冬を越えてひと回り大きく映る。
ポケットの万年筆を握ってみた。何も視えない。画面の中の馬は、俺の目にはただの映像だ。
動画が終わる。俺は携帯を机に置いた。
4月の最初の金曜の朝、事務所で携帯が震えた。画面に「先生」と出ている。宮田さんは机で帳面をつけていたが、俺が携帯を耳に当てると手を止めてこちらを見た。
「7枠13番です」
先生の声は相変わらず丁寧で短い。頭の中で阪神の内回りをなぞる。7枠なら、外寄りだ。
「16頭立てです」
「外ですが、須賀は構わないと言っています。前に行くか後ろに控えるかは、ゲートを出てから決めると」
俺は黙って聞いていた。自在の隠れ適性が、こういうときに意味を持つ。内枠で前を塞がれるより、外から自分のリズムで運べるほうがいい、と須賀が言っているのが目に浮かぶようだった。
「体は、有馬から10キロほど増えて出られると思います」
10キロ。数字にすると重く聞こえるが、冬を越して骨格ごと大きくなった分だと頭では分かっている。それでも、口の中が少し乾いた。
「……分かりました。日曜、そちらに伺います」
「お待ちしています」
電話が切れた。携帯を机に置くと、伏せた画面が小さく光って消える。
宮田さんが帳面を閉じずに、壁のカレンダーへ目をやった。
「……外か」
それだけ言って、また帳面へ視線を落とした。俺は何も返さず、窓の外を見る。日が長くなった。牧草地の雪が、朝の光を薄く跳ね返している。
日曜には、やっと自分の目でアサツユを視られる。有馬の日から、アサツユの前ではずっと握らずにきた万年筆が、ポケットの中で冷たく待っている。
◇
4月4日の日曜。阪神競馬場のパドックは、昼過ぎの陽射しで白く照り返していた。朝の便で来た奏が、柵の外で腕時計を見ている。発走まで、あと40分。空は晴れ、芝は良。絶好の、と言いたいところだが俺の胃のあたりは絶好とは程遠い。
馬主はパドックの内側だ。柵を挟んで、奏と宮田さんが外にいる。宮田さんは今朝、一番に着いて場所を取っていた。そういう人だ。
電光掲示板には、もう数字が出ていた。13番、アサツユ。馬体重プラス10。冬を越してひと回り大きくなった、という先生の言葉が数字になっている。
担当さんに引かれて回ってくる。冬の前より首が厚い。胸前の盛り上がりが、押し出すように見える。背中の線が、去年より短く詰まって見えた。ゲームで言うなら、レベルが上がったのに骨格ごと作り直された感じだ。
「太め残りじゃない。張ってる」
柵越しに奏が獣医の早口で言う。目は馬から離さない。張ってる、という言葉の意味を俺はもう知っている。数字の10キロは、重りじゃない。
宮田さんが、ぽつりと言った。
「……いい顔してる」
それだけだった。無口な男の、いちばん長い褒め言葉だ。
ポケットの中で万年筆を握った。冷たい軸が指の形になじむ。目を上げて、パドックを回る黒鹿毛を正面から見る。視界の端で、いつものように半透明の表示が浮かび上がった。
【スピード:A+】 【スタミナ:A+】 【パワー:A+】 【根性:A+】 【賢さ:S】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
俺は小さく息を吐いた。
「……変わってない」
有馬記念の日と1行も変わっていない。冬を越して、体は10キロ大きくなって首も胸も厚くなった。なのに、表示はあの日のままだった。
悪い意味じゃない、と自分に言い聞かせる。冬のあいだは休ませていた。レースにも出ていない。上がる理由がない。むしろ、休ませて下がらなかったことのほうを喜ぶべきだ。
頭では分かっている。分かっているのに、テンカザクラの金鯱賞が脳裏をよぎる。あっちは一度叩いて、2馬身半だ。
俺は手の中の万年筆を強く握り直し、パドックの別の馬のほうへ目を移した。じゃあ、ほかの2頭はどうだ。
同じ周回の5番。ハヤテノオウ。大きな栗毛。額から鼻まで太い流星。胸の深さも首の差しも、有馬の日と同じだ。表示が浮かぶ。
【スピード:S】 【スタミナ:A】 【パワー:A+】 【根性:A+】 【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:先行】
6歳になっても1つも落ちていない。古馬の王者は、冬を越しても王者のままだった。パドックに入る前に携帯で見たオッズでは、ハヤテノオウが1番人気2.9倍、アサツユが2番人気3.3倍、テンカザクラが3番人気4.1倍だった。俺の馬が、王者の次に推されている。
次に3番。テンカザクラだ。額の小さな星。表示は――
【スピード:A+】 【スタミナ:A】 【パワー:A+】 【根性:A-】 【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:先行】
去年の秋までは【根性:B+】だった。その1行だけが違う。金鯱賞で、外から自分で動いて押し切った馬の行だ。あの競り合いで音を上げなかったから、B+がA-に変わった。冬を越して変わったのは、あっちの方だった。
3頭の表示を、頭の中で並べてみる。数字だけなら、アサツユはテンカザクラに1つも負けていない。同値か、上だ。
なのにあっちは1戦使っただけで根性が1段上がった。こっちは冬をまるごと越して、何も上がっていない。ゲームで言うなら、経験値が入ったのはあっちだけだ。
そしてハヤテノオウの【スピード:S】。あの1行だけは、どうやっても届かない。
テンカザクラの向こう、柵の内側の反対側に、桜庭が立っていた。スーツの胸ポケットに手を入れたまま、こちらを見ている。目が合うと、彼は周回する馬の通り道を大きく回って、隅のほうから歩いてきた。
「日向くん」
足を止めたのは、俺から2歩ぶんほどの距離だった。丁寧な声なのに、目だけが笑っていない。
「返事がないのは、今日の結果で返すという意味かな」
冬の間に届いた2度のメッセージ。金鯱賞の夜の「去年の秋の馬じゃない」。全部、既読のままにしてある。それを言っているのだ。
俺はポケットから手を出して、まっすぐ見返した。
「……終わったら、返します」
桜庭が顎をわずかに上げ、アサツユのほうへ目をやった。
「プラス10か。冬に、ちゃんと作ってきたね」
その言い方が数字を誉めているのか、俺を探っているのか、まだ分からない。俺は返していないメッセージの言葉を、そのまま返した。
「そっちも、去年の秋の馬じゃないって聞きました」
桜庭は少しだけ笑った。口元だけの笑みだ。それから「そうか」と短く言って、背を向けた。テンカザクラの周回のほうへ戻っていく。歩きながら、肩越しに一度だけこちらを振り返った。
「楽しみにしているよ」
あの8行が、今日の俺の持ち札の全部だ。
パドックに「止まれ」の号令がかかる。騎手たちが一列になって入ってくる。白に青の二本輪の勝負服。須賀がまっすぐこちらへ歩いてきて、俺の前で立ち止まった。小柄な体が、今日はやけに大きく見える。
「オーナー。何か、ありますか」
声は静かだった。この男はいつも、発走の前にこうして聞いてくる。去年の皐月賞の日も、ダービーの日も、有馬の日も。
表示のことは言わない。言えるはずがない。
「……外、好きに使ってください。広いとこで」
須賀が、わずかに表情をゆるめた。口元だけで、目はもう馬のほうを見ている。
「外のほうが、この馬は機嫌がいいです」
そう言うと、須賀は「はい」と短く返して、アサツユのほうへ歩いていった。担当さんが脚を持ち上げ、須賀がひらりと跨がる。白に青の二本輪が、黒鹿毛の背の上で陽の光を受けて浮かび上がった。
騎手を乗せた馬たちがパドックをもう一周する。観客のざわめきが潮のように寄せては引いていく。13番が、誘導馬の後ろへ続いてパドックの出口へ向かっていく。
俺は柵の前で、その背中が見えなくなるまで立っていた。
◇
スタンド最前列の手すりに、俺は両肘をついていた。ターフの緑が、昼下がりの陽を浴びてやけに明るい。向こうの本馬場では、返し馬の馬たちがゆっくりと流れている。13番、黒鹿毛の馬体が遠目にも分かるくらい、折り合って軽いキャンターで流していた。
俺は上着の内ポケットから手帳を出した。開いた最後のページには、有馬記念の日の日付と「A+」の文字がひとつ。その下は、ずっと空いたままだった。
「何書いてるの」
隣から奏が覗き込むように言った。俺は手帳を胸のあたりに持ち上げたまま、目は馬を追い続ける。
「……メモ」
「へえ」
奏はそれ以上追及しなかった。隣で腕時計を外したりはめたりしている。宮田さんは俺たちから半歩離れた位置で、ターフビジョンを睨んでいた。画面には、出走する16頭の紹介が流れていた。
後ろの席から、野太い声が降ってくる。
「有馬勝ったのに2番人気かよ」
「外枠でプラス10はなぁ」
「王者は叩かずに来てもあれだぞ」
好き勝手言ってくれる。こっちは胃がキリキリしてんだ。
手すりを握る指に力がこもる。返し馬を終えた13番が、ゆっくりと向きを変えた。黒鹿毛の体が、スタンド前のゲートのほうへまっすぐ進んでいく。その背中が、緑のターフに吸い込まれていくように見えた。
俺は万年筆のキャップを外した。軸が指に吸いつくように馴染む。手帳の「A+」の下に、今日の日付を書いて、その隣にもう一度「A+」と書いた。
同じ文字が、2つ並んだ。




