王様の背中
ファンファーレが鳴った。
スタンドの空気がぶわっと一つに膨らむ。手拍子が波のように広がって、俺も思わず手すりを叩いていた。胃のあたりがまだキリキリしているのに、指だけは勝手に動く。
「入った」
隣で奏が双眼鏡を構えたまま、短く言った。宮田さんは何も言わない。両手をポケットに入れて、ただゲートを見ている。その背中が妙に静かで、俺は少しだけ落ち着いた。
ゲートに馬たちが収まっていく。奇数番が先に収まっていく。13番の黒鹿毛も、嫌がらずにするりと入った。ゲートの中で頭を上げない。あの馬なりに、腹を決めている顔だった。偶数番が続き、最後に大外の16番がすべり込む。
いいぞ、行ってこい。
ゲートが開いた。
「スタートしました!」
実況の声がスピーカーから弾ける。16頭が一斉に、スタンド前の急坂へなだれ込んだ。芝の上を蹄が削る音が、地鳴りのように腹へ響く。白に青の二本輪が、外目の位置で五分に飛び出している。前に行くか、控えるか。須賀の手がまだ動かない。
「五分!」
奏が叫んだ。俺は声が出なかった。ただ、坂を上っていく黒鹿毛の背中を、目だけで追いかけていた。16頭が塊のまま、1コーナーへ向かって加速していく。
スタンド前の急坂を上り切った先で、16頭がぐっと右へ傾いていく。内の馬たちが壁を作り、外の馬が膨らむ。
「……外、出した」
奏の双眼鏡がぴたりと止まっている。俺も目を凝らした。黒鹿毛の位置は、前から数えて8番目。7枠13番のまま、外目をふわりと回っている。内へ入れない。いや、入れないのではない。須賀が、入れていない。
「先頭は8番、2番手にテンカザクラ、その外にハヤテノオウ!」
実況が1コーナーの隊列を畳みかける。桜庭の馬が好位の内で折り合い、王者がその外でぴったりと呼吸を合わせている。どちらも手応えは楽そうだ。
対して俺の馬は外を回らされるぶんだけ距離を余計に走らされている。育成ゲームで言うなら、序盤から「ロスを拾う」展開。賢さSの馬が、自分から外を選んだのか須賀が選ばせたのか。それとも、この位置こそが自在の答えなのか。
16頭の塊が1コーナーを抜けて2コーナーへ流れ込む。黒鹿毛の脚はまだ、地面を掻くでもなくただ柔らかく伸びている。須賀の背中が、1つも揺れていない。
向正面に入ると風の音が変わった。スタンドの歓声が遠くなって、蹄の音と馬たちの吐く息だけが残る。ここは平坦だ。各馬がここで一度、息を入れる。
「1000メートル通過、1分0秒1!」
実況が告げる。平均より、ややゆっくり。前が落ち着いた、ということだ。
俺の隣で、宮田さんがぼそりと言った。
「……流れが遅え」
背筋がすっと冷えた。遅いということは、上がりが速くなるということだ。前の2頭は、脚を残したままだ。俺の馬は8番手。外を回らされている。このままでは、届かない位置で脚を使わされる。
「13番、外から8番手。まだ手が動きません」
実況が言う。俺は手すりを握った。須賀、と心の中で呼ぶ。何かしてくれ。
3コーナーの手前。向正面の残りが短くなって、馬群が少しずつ内へ寄り始めた、その瞬間だった。
須賀の手綱が、わずかに動いた。
白に青の二本輪が、外へ。黒鹿毛が外から少しずつ、前へ上がり始めた。
3コーナーへ差し掛かると馬群がぐっと右へ沈み込む。ゆるい下りだ。外を回る俺の馬だけが、弧のいちばん長い道を走らされている。それでも黒鹿毛は加速しながら前へ進み出る。8番手から、7番手。半呼吸で6番手。蹄が芝を叩く音が、スタンドまでずんずん響いてくる。
「13番、大外から上がっていく!」
実況の声が、耳の奥で弾ける。前ではハヤテノオウがまだ手綱を持ったままだ。大きな栗毛の背中が、2番手のテンカザクラの外にぴたりと並びかける。逃げた8番はもう、すぐ目の前まで迫られている。王者が馬なりで王様の場所を取りに来ている。それなのに、こっちは外を回ってまだ4番手だ。
「外回ってロスしかない!!」
「経験値で負けてたまるか!!」
声が勝手に出た。喉が張り裂けそうだった。隣で奏が何か叫んでいる。もう聞こえない。視界の端で、宮田さんが帽子のつばを下げた。
4コーナー。カーブの出口が白いスタンドの壁と一緒に迫ってくる。アサツユの脚が、外からさらにひと伸びした。前から4番手。芝を噛む音が、高く澄んで聞こえる。須賀の背中が、深く沈んだまま動かない。これが自在の答えなら、直線で全部ひっくり返してこい。
「4コーナー、王者ハヤテノオウが馬なりで先頭をうかがう! 外から13番アサツユ!」
各馬が直線へ向く。残り、約350メートル。
ハヤテノオウが馬なりで逃げた8番をかわし、あっさり先頭に立つ。王者の背中が、陽の下でひと際大きく見えた。
「ハヤテノオウ先頭! 2番手争いはテンカザクラとアサツユ!」
内で桜庭の馬が食い下がる。テンカザクラは止まらない。脚色はまだ、あの金鯱賞のままだった。俺の黒鹿毛は外から猛然と伸びて、残り200の標識の手前で並んだ。テンカザクラと、鼻先がそろう。
「王様の格が違いすぎる!!」
「こっちは育成の結晶だ!!」
声が喉から飛び出していた。王様は、まだ手綱を持ったままだ。楽に抜けていく。
「差、詰めてる!」
奏が手すりに手をかけて叫んだ。宮田さんは帽子のつばの下から、じっと前を見ている。
残り200メートル。ゴール前の急坂が、黒い壁のようにそびえていた。
ハヤテノオウが坂に入っても脚色を変えない。前脚を深く掻き込んで1馬身の差をそのまま守る。あの【スピード:S】の1行が、目玉の裏に焼き付いて離れない。有馬の直線で見た光景と同じだ。王者は、坂でも王様のままだった。
その内で、テンカザクラが粘る。黒鹿毛と首の上げ下げになった。こっちがひと伸びすれば、あっちも半歩だけ伸び返す。首が並んだかと思えば、次の一歩で桜庭の馬がまた前へ出る。去年の秋まで【根性:B+】だった馬が、坂の一番苦しい場所でぴくりとも引かない。
「坂でテンカザクラが盛り返す! アサツユも外から!」
パドックで視た【根性:A-】の1行が、脳裏で赤く点滅する。あの上がった1行が、いま坂で効いているのだ。黒鹿毛の首と桜庭の馬の首が、坂の途中で何度も入れ替わる。脚色はまだ落ちない。2頭の鼻先が並び、離れ、また並ぶ。蹄が芝を削る音が重なった。
須賀の左鞭が1発、黒鹿毛のトモを鋭く走った。
「下がるな!」
奏が叫んだ。
「根性値の削り合いだ!!」
「上がってくれ!!」
手すりを握る指が白くなっている。隣で奏が叫び、宮田さんが手すりから身を乗り出している。
残り50メートル。黒鹿毛の脚が、ようやく王様の後ろで止まりそうになる。いや、止まって見える。それでも首は下がらない。
先頭がゴールに飛び込む。実況が叫ぶ。
「ハヤテノオウ、1着! 王者が阪神で雪辱! 2着争いはテンカザクラか!」
黒鹿毛と桜庭の馬がほとんど同時にゴールを駆け抜けた。掲示板に、5、3、13と番号が点滅した。確定のランプはまだ点かない。勝ち時計1分57秒9。
13の数字が、3番目で点滅している。
ゴールの瞬間スタンドが割れるように沸いた。地鳴りみたいな歓声が、頭のてっぺんから降ってくる。誰もが5番の名前を叫んでいる。
「やっぱ2000はハヤテだわ」
「有馬はたまたまか?」
すぐ後ろの声だった。俺は何も言い返さなかった。言い返す言葉が、喉の奥で転がって出てこない。手すりを握っていた指を、1本ずつほどく。手のひらに赤い跡が残っていた。
隣で奏が双眼鏡を下ろした。俺の顔を見ないまま、くるりと踵を返す。
「奏」
呼んでも、もう背中しか見えない。人混みの隙間を縫って、通路のほうへ走っていく。あの速さは、馬の脚を見に行く速さだ。検量室の前で、アサツユの脚を確かめるつもりなのだろう。
宮田さんが、手すりから体を起こした。ポケットに両手を戻して、それから俺の肩のあたりを一瞥する。
「……行くぞ」
◇
検量室の前に引き上げてきたアサツユが立っていた。担当さんが引き手を持ち、馬体は汗で黒光りしている。だが息はもう落ち着き始めていた。走り切った馬の、あの静かな顔だ。
先に着いていた奏が、しゃがみ込んだ。右前から順に、4本の脚を手のひらで確かめていく。蹄の裏、球節、管、膝。獣医の指が迷いなく流れていく。
「どこも痛めてない。……負けただけ」
顔は上げなかった。その言い方が、たぶん一番やさしい。俺は何か言おうとして、やめた。汗の匂いと芝の匂いだけがした。
後検量を終えた須賀が鞍を抱えたまま俺の前へ来た。頬に汗が伝っている。勝負服の白が、まだ息に合わせて上下していた。
「外を回ったせいじゃありません」
須賀はまっすぐ俺を見て言った。言い訳を先に潰しに来るあたりが、この男らしい。少し間が空く。抱えた鞍を、握り直す音がした。
「……2000では、あの馬の方が速かったです」
俺は須賀の顔を見返した。
「……知ってます」
須賀が、少しだけ目を見開いた。
確定のアナウンスが流れた。着差は1 1/4馬身と、クビ。
そこへ、先生が白いシャツのまま歩いてきた。ネクタイが、汗のぶんだけ少し傾いている。
「オーナー」
先生はアサツユの横に立ち、それから俺のほうへ向き直った。
「京都は、距離が延びます」
頭の中で、春の京都が浮かぶ。2000が3200になる。中距離向きの表示のまま、1200メートルも延びる。
「……まだ、終わっていません」
その言い方には慰めがひとつも入っていなかった。だから、こっちも変な顔をしないで済んだ。
少し離れたところを大きな栗毛が引き上げられていく。確定を待つ検量室の前で、白髪の調教師がふとこちらを見た。黙って軽く頭を下げる。俺も頭を下げた。あの人の馬は、今日も強かった。悔しいくらい、堂々と。
ポケットの中の万年筆に、指先が触れる。冷たい軸。俺は握らずに、手を出した。
「……お疲れさん」
宮田さんが追いついてきて、アサツユの首を一度叩いた。ぽん、と乾いた音がした。
担当さんに引かれて検体採取所へ向かいかけた黒鹿毛が、ふいに足を止める。長い首がすっと伸びて、俺の上着の袖を鼻先でつついていった。
◇
夕方の通路は帰る人でごった返していた。勝ち馬の名前を口にする声、負けた馬を惜しむ声。その流れの中を、俺たちは黙って歩いた。奏は隣で前を向いたまま、視線を一度もこちらへ寄こさない。宮田さんは半歩前を、両手をポケットに突っ込んで歩いている。
俺はポケットから携帯を出した。画面を開くと、桜庭さんからの、返していないメッセージが並んでいた。金鯱賞の夜のも入れて、3通。その返信欄を、俺は指で押した。
「負けました。京都で」
短く打って、送信した。画面の端で既読の文字が小さく灯る。
奏は画面を見ないふりをして前を向いていた。その横顔に、何か言おうとしてやめた。
「……帰るぞ」
宮田さんが振り返らずに言った。俺は携帯をポケットに戻した。
送ってから、レースが終わってまだ一度も万年筆を握っていないことに気づいた。




