火曜の馬房
大阪の夜は、昼の陽射しが嘘みたいに冷えていた。宿の前に立つ自販機の白い明かりだけが、やけに眩しい。俺は小銭を入れて缶コーヒーを2本買い、1本を奏に差し出した。
「……ありがと」
奏は両手で受け取ってあったかい、と小さく呟いた。プルタブを開ける音が2つ、夜に響く。あとは2人とも黙って飲んだ。
負けた夜の静けさだ。向こうの通りを、酔った客の笑い声が遠ざかっていく。胃のあたりはまだキリキリしていて、コーヒーが沁みるのか沁みないのかも分からない。手のひらの、手すりの跡もまだ残っている気がした。
「外、回ったな」
俺が言うと、奏は缶を両手で包んだまま前を向いて首を振った。
「須賀さんは、あれでよかったと思う。あの馬、囲まれると機嫌が悪くなるから」
「……知ってる」
「でしょ」
それだけ言ってまた黙る。自販機の唸りだけが続いた。缶を持つ奏の指が、少し赤い。俺は自分の缶を見て、それから顔を上げた。
奏が、缶を両手で持ったまま、こちらを見た。
「レース、終わったから」
自販機の唸りがやけに耳の奥で大きく聞こえる。
「研修、3月で終わったでしょ。そのあと、のこと」
俺は缶を持ち直した。
「4月から、ひなたで働かせて」
奏の声は、いつもの早口じゃなかった。ひとつずつ、置くように。
「シズクのお産、私が担当なんだから。そばにいないと話にならないでしょ。給料は安くていい」
俺は缶を口に運ぼうとして、やめた。変な間が空く。
「父には先週言った。止めなかった」
奏はそこで一度、缶を見下ろした。親指で表面の水滴を拭う。
「……ほんとは、勝った日に言いたかったんだけど」
負けた夜の自販機の前でその言葉はやけに沁みた。胃のあたりのキリキリが、別の痛みに変わる。俺は息を吐いた。
「……給料、ほんとに安いぞ」
奏が、ふっと笑った。鼻だけで。
「知ってる。帳簿見たことあるし」
ああ、この人は本当に来るつもりだ。昔から、決めたらそういう人だった。俺は残りのコーヒーを一気に飲み干した。苦い。喉の奥で、味がしない。
「……来てくれ」
それだけ言うのが精一杯だった。奏は何も言わなかった。ただ、缶を握ったままふいと横を向いた。自販機の白い明かりの中で、耳の先が赤くなっているのが見えた。
少しして、奏が前を向いたままぽつりと話を変えた。
「明後日、美浦に寄る。帰ってきたアサツユの脚、もう1回診たいから」
缶を両手でくるりと回して、それから俺のほうを見た。
「陸はどうする。日高、まっすぐ帰るんでしょ」
俺は自販機の光の中で、小さく首を振った。
「俺も行く」
奏が、ふっと息を漏らすように笑った。何かを言いたそうに口を開きかけて、やめて缶を飲み干した。
「そ。じゃあ朝いちの便、取らないと」
「取っとく」
言ってから、ポケットの中で指先が万年筆に触れた。冷たい軸。握らなかった。そのまま缶を手に、自販機の横のくずかごへ歩いていく。空き缶が、夜の底で小さく乾いた音を立てた。
◇
2日後の火曜の朝、美浦の先生の厩舎は、まだ朝露の匂いが残っていた。朝の調教が一段落した馬房の前で、担当さんが引き手を持ったまま立っている。アサツユは月曜に美浦へ戻り、昨夜からカイバもきれいに食べているらしい。担当さんが「戻ってから、ずっと機嫌がいいです」と笑った。あの馬なりに、帰る場所が分かっているのだろう。
奏が担当さんに断ってから馬房の前にしゃがみ込む。右前から順に、指の腹で腱をなぞり球節を包み、蹄の裏まで確かめていく。アサツユはされるがまま、時々耳だけを奏のほうへ向けた。診る手つきは、いつもの早口が嘘みたいに静かだ。
「大丈夫。熱もない」
奏は顔を上げずに言った。担当さんが小さく息を吐く。俺も、肩のあたりから力が抜けた。担当さんがアサツユを馬房に戻した。先生が白いシャツの袖をまくったまま、馬房の柱に寄りかかって見ている。
先生が、馬房の柵へ手をかけた。
「天皇賞(春)、5月2日。京都の3200に行きます」
3200。2000から、1200メートル延びる。中距離向きの1行が頭の隅でちらつく。だが先生の声には迷いがひとつもなかった。
「須賀も乗ります。3200は初めてだそうですが」
「……お願いします」
俺はそれだけ言った。初めてという言葉が喉に引っかかったが、須賀なら大丈夫だと表示の外のところで思った。先生が会釈して馬房を離れる。奏はもう担当さんと飼い葉の話に移っていて、担当さんが開けて見せた飼料の缶を覗き込みながら何か早口で言っている。
馬房の中は、朝の光が半分だけ差し込んでいた。アサツユは奥で乾草をついばんでいて、俺が柵の前に立つと耳だけをこちらへ向けた。先生は事務所へ戻っていた。
俺はポケットの中で、万年筆を握った。
冷たい軸が指に吸いつく。大阪杯のあの日から、一度も握っていなかった。
目を上げて、黒鹿毛の全身を正面から視る。視界の端で、半透明の表示が静かに浮かび上がった。
【スピード:A+】 【スタミナ:A+】 【パワー:A+】 【根性:A+】 【賢さ:S】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
8行。有馬記念の日から、1行も変わっていない。
いや、違う。
【隠れ適性:中距離向き】の1行だけが、濃い。ほかの7行が朝の薄明かりに溶けるように淡く並んでいるのに、その1行だけが黒インクで押しつけたみたいに、くっきりと浮かび上がっている。
前の2回は、俺が手を離すか、まばたきひとつで淡く戻った。
今度は、まばたきしても戻らない。
俺は手のひらで万年筆を握り直した。
中距離向き。
その1行だけが、目の前で燃えるようにいつまでも濃く光っていた。
指を離すと、8行はすっと薄れて消えた。アサツユはただの黒鹿毛に戻る。濃さは、離す最後の瞬間まで残っていた。
「……なあ、お前」
黒鹿毛が長い首を伸ばし、俺の帽子のつばを鼻先でつついた。俺は帽子を押さえる。
「それ、やめろって」
アサツユは知らん顔で乾草に戻る。担当さんが笑って缶の蓋を閉め、奏がこちらを見た。
「どうしたの」
「……いや。なんでもない」
ポケットの中で、万年筆がまだ冷たい。
◇
4月8日、木曜の朝。
事務所の窓から俺は奏の軽トラが坂を上がってくるのを見ていた。荷台の幌が風に膨らんでいる。中には往診鞄と、エコーのケースが積んであるのが分かる。
奏は軽トラを厩舎の前に止めて、ひらりと降りた。今日からここが職場だ。そう思うと、自分の牧場のはずなのにこっちの背筋が伸びる。
宮田さんが厩舎の入口から出てきた。黙って奏の顔をひとつ見て、厩舎の中を親指で指す。
「……ロッカー空けといた」
それだけ言って鼻を鳴らして先に中へ入っていく。あの無口な男が、ロッカーを空けて待っていた。その事実だけで、もう全部伝わっている気がした。
奏は、無人の入口に向かって頭を下げる。
「今日からよろしくお願いします」
声が、春の朝の空気にまっすぐ通った。早口でもなく、けれどはっきりと。
それから奏は、荷台から往診鞄を下ろしてまっすぐシズクとサザナミの馬房へ歩いていく。背筋が伸びて、足取りに迷いがない。
馬房の前で足を止めて、柵越しに2頭を順に見た。それから、馬にだけの声で言った。
「来たよ」
シズクが首を伸ばして、奏の肩のあたりに鼻先を寄せる。サザナミも奥から顔を出して、ふるりと耳を立てた。
俺は窓から、その背中を見ていた。
◇
夜、事務所に一人で残っていると後ろで戸が開いた。振り返ると宮田さんが立っている。無言で窓の外、暗くなった厩舎のほうを見てから、こちらを向いた。
「……給料、払えんのか」
声はいつものぼそぼそだった。俺は帳簿を閉じて、まっすぐ見返す。
「払う。先代の頃の額で」
宮田さんはしばらく俺の顔を見ていた。それから、ふっと鼻だけで息を漏らす。
「……そうか」
それだけ言うと、くるりと背を向けて事務所を出ていった。戸が閉まる音だけが、静かな夜に残った。
事務所の灯りは机の上だけを丸く照らしていた。窓の外はもう真っ暗で、風の音だけが遠くで唸っている。
俺は手帳を開きページの真ん中に線を1本引いた。左に日付、右にその日のことを書く。万年筆のキャップを外し、まず一番上に書いた。
「2歳12月。1勝クラス。須賀さんが『余力を残している』と言った日」
次に、その下。
「3歳暮れ。有馬記念。パワーがAからA+になった直後」
そして、いちばん下。
「4歳4月。大阪杯の2日後。美浦。今度は消えなかった」
3つ並べて、ペン先を止める。
勝った日がある。負けた日もある。勝ち負けで濃くなるわけじゃない。
俺は菊花賞の日を思い出していた。京都の3000を、あの馬は【中距離向き】の表示のまま勝った。あの日、行は濃くならなかった。だから、これは限界じゃない。表示はまだ終わっていない。
俺は開いた手帳の、さっき引いた線の下を指でなぞった。
思い出すのは2歳の秋だ。新馬戦の口取りのあと、万年筆を握ってアサツユを視たとき。あのとき【パワー:A】の「A」の右側に、一瞬だけ「+」の残像が重なって見えた。「+」だけが薄く浮いて、すぐに消えた。
あれから1年以上たって、有馬記念の日に本当にA+になった。
ゲームなら、あれだ。表示がちらつくのは書き換えが始まる合図だ。まだ中身は決まっていないのに、枠だけ先に震えている。
なら、火曜の濃さも同じなのではないか。中距離向きの行が、消えるでも薄れるでもなくくっきりと濃く残った。書き換わる手前。更新待ち。
何に変わるのかは分からない。消えるのかもしれない。それでも、確かめられる場所はひとつしかない。
俺はペン先を、線の下へ置いた。
「5/2 京都 3200」
書き終えて、少しだけ眺めた。それから手帳を閉じる。




