淀の坂の手前
パドックへ向かう通路の売店の前で、俺は競馬新聞を開く。一面の見出しは「王者不在の春天」。続けて「ハヤテノオウ、宝塚記念へ直行」の文字が踊っている。17頭立て。アサツユは6枠11番、テンカザクラは4枠7番、シロガネノミチは1枠2番。枠順は木曜に出ていた。
「11番か」
呟くと、奏が新聞を覗き込む。
「外目の真ん中。悪くないでしょ」
「まあな」
宮田さんはいない。「腹の大きいのを2頭置いて、行けるか」と言って日高に残った。
目を上げると通路の先にスーツ姿の篠宮貴之が立っていた。シロガネノミチの生産者として来ている。向こうもすぐにこちらへ気づいて、軽く片手を上げた。
奏は一歩前へ出た。
「……父」
短く会釈する。背筋を伸ばして、目だけで挨拶を済ませる。
「奏が世話になっているね、陸くん」
貴之は穏やかな声でそう言った。相変わらず数字を扱うみたいに、さらりと人を懐に入れてくる。
「今日はひなたの人間だから」
奏がはっきりと言った。貴之は一瞬だけ娘を見て、それから小さく笑う。
「そうだね」
それだけ言って、貴之は俺に向き直った。
「シロガネは、3000で一度も脚が止まらなかったよ」
競馬新聞の馬柱を指先で軽く叩く。阪神大賞典の逃げ切り。阪神の3000を、あの細い首の芦毛が一度も止まらずに走り切った。
「……去年言ったね。今年は勝たせるよ」
貴之の声が、ひとつだけ低くなった。去年の暮れ、有馬記念の通路で。確かにこの人は言っていた。来年は、勝たせるよ、と。
「……うちの馬も止まりません」
俺はまっすぐ見返して言った。声は思ったより低く出た。貴之は少し目を細めて、それから小さく頷く。
「うん。いいね」
貴之は先にパドックのほうへ歩いていった。スーツの背中が人混みに溶けていくまで、奏はじっとそれを見ていた。それから、俺の袖を引く。
「行こ」
声は短かった。俺は新聞を畳んで、奏のあとを追う。
パドックの輪が、人でぎっしり埋まっている。俺は携帯を開いて単勝を確認した。1番人気アサツユ、2.9倍。2番人気テンカザクラ、3.6倍。3番人気シロガネノミチ、5.2倍。数字だけ見れば今日は俺の馬が主役だ。
電光板の馬体重を見る。アサツユは大阪杯から−4キロ。
「絞れてる。……ちょうどいい」
奏が隣で呟いた。獣医の目は、数字より馬体を見ている。
「ハヤテがいねえなら、アサツユで決まりだろ」
「でもあれ中距離の馬だぞ。3200はどうかね」
前の列の声が風に乗って耳へ届く。言い返したい気持ちを、ぐっと喉の奥へ押し込んだ。
担当さんに引かれて、黒鹿毛が目の前を通る。汗を拭かれた馬体が、陽の下でつやつやと光っていた。
俺はポケットの中で万年筆を握った。
冷たい軸。視界の端に、半透明の文字が浮かぶ。
【スピード:A+】 【スタミナ:A+】 【パワー:A+】 【根性:A+】 【賢さ:S】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
有馬記念の日から、1行も変わっていない。
いや――【隠れ適性:中距離向き】の1行だけが、美浦の朝と同じ濃さで浮かんでいる。今日はその文字の端が、熱の向こうの空気みたいにわずかに揺れて見えた。
何に変わるのか。それとも、消えるのか。
まだ、分からない。
俺は万年筆を離さず、その揺れる1行を見つめていた。
握ったまま、目の前を通り過ぎていく芦毛を目で追った。2番のゼッケン。首が細く長い。あの首で先頭を走り続けるのが、あの馬の生き方なのだろう。視界の端に表示が浮かぶ。
【スピード:B+】 【スタミナ:S】 【パワー:A-】 【根性:A】 【賢さ:B+】 【隠れ適性:長距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:逃げ】
前と変わらない。ただ逃げの1行と、スタミナのSが目に刺さる。3000で止まらなかった馬だ。3200になっても、あの逃げは止まらないのだろう。
続いて7番。額に小さな星。
【スピード:A+】 【スタミナ:A】 【パワー:A+】 【根性:A-】 【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:先行】
大阪杯の日のまま。俺はゆっくり指を離した。文字が薄れて消える。
「京都で、と言ったね」
声のほうへ顔を向けると桜庭が隣に立っていた。スーツの袖を軽く直して、パドックの輪を眺めている。
「……言いました」
「テンカザクラも君の馬も、3200は走ったことがない。条件は同じだ」
桜庭はそう言って、パドックの輪の向こうを見た。
「大阪杯の借りは、京都で返します」
桜庭は一瞬だけこちらを見て口の端をわずかに上げた。何かを言いかけて、やめてパドックの輪の向こうへ歩いていく。スーツの背中が人波に溶けるまで、俺はその場に立っていた。
「止まれ」の号令がかかった。輪が静まり、騎手たちが整列して一礼し、各馬へ散っていく。白に青の二本輪が、人混みを縫ってこちらへ来た。
「3200がもつかは、分かりません」俺は先に口を開いた。「……でも菊の3000は、最後まで脚が残ってました」
須賀は頷いて言った。
「1回目の坂は、何もしません」
「……2回目は」
「2回目は、僕が決めます」
短くて、迷いがなかった。少し後ろで先生が何も言わずに頷いている。
そこへ担当さんに引かれて黒鹿毛が寄ってきた。長い首がすっと伸びて、俺の帽子のつばを鼻先でつつく。またか。俺は帽子を押さえながら、その鼻面を手のひらで軽く叩いた。
「行ってこい」
担当さんが須賀の脚を持ち上げる。鞍に収まる音がひとつ。白に青の背中が輪へ戻っていく。
黒鹿毛が列に並び、やがて地下馬道の暗がりへ吸い込まれていった。奏が隣で、じっとその背中を見送っている。
◇
スタンド最前列、手すり越しの芝が近い。返し馬。須賀を乗せた黒鹿毛が、首を低く落として軽く流れてくる。脚取りが柔らかい。
「蹄、きれい。返しも素直」
双眼鏡を当てたまま奏が短く言う。獣医の言葉はそれだけだった。
白に青の二本輪がスタンド前を抜け、各馬が向正面へ散っていく。
ファンファーレが鳴った。俺は手すりに腹を押しつけるようにしてターフビジョンを見上げた。京都の3200はスタートが向正面の半ばだ。目の前の芝はまだ空っぽで、馬たちは遥か遠く画面の中にいる。
「遠いな」
奏が双眼鏡を構えたまま言った。俺も目を凝らす。
ビジョンの中で奇数番が次々と収まっていく。11番の黒鹿毛も、いやがらずに歩いて行く。偶数番が続き、2番の芦毛が細い首をしずかに下げてすっと入った。最後に大外の17番がすべり込んだ。
「態勢完了」
実況が言った。その瞬間スタンドがふっと静かになった。何万人もの息が、いっせいに止まったみたいだった。俺も手すりを握ったまま、唾を飲むのも忘れていた。
「スタートしました! 各馬揃ったスタート、内から2番シロガネノミチがハナを奪います!」
芦毛の首が、内からするりと前に出る。あの細い首だ。2番手に2馬身。テンカザクラは3番手の外。俺の黒鹿毛は――前から7番手、内寄り。前に1頭置く形だ。
「抑えたな」
「あれでいい。囲まれたくないんだから」
奏の声が少しだけ速い。俺は頷く。向正面の半ばから、馬群が3コーナーの上り坂へ差し掛かる。画面の中で、各馬の脚が一斉に重くなる。あの坂だ。1回目の、上り。黒鹿毛の背中が内でぐっと沈んだ。
「3コーナー、シロガネノミチまだ先頭! 差は2馬身!」
「……脚、残ってる」
奏が呟く。坂を上り切って今度は下り。馬群がぎゅっと縦に伸びて、4コーナーへ流れ込む。
「4コーナー、隊列が縮まってきました! 外の3番手にテンカザクラ!」
内の黒鹿毛はまだ7番手。スタンド前の直線が白く視界の端で光った。
目の前を17頭がなだれのように駆け抜けていく。地を蹴る音が足もとまで響いて、スタンドがどっと沸いた。俺は手すりに身を乗り出し、黒鹿毛の背中だけを目で追う。白に青の二本輪。前から7番手、内寄り。前に1頭を置いたまま、首は上がらない。耳だけが一度スタンドのほうへ向いて、すぐ前へ戻った。
「……聞いてない」
奏が双眼鏡を下ろさずに呟く。歓声をかき分けて、実況が畳みかける。
「1000メートル通過は1分1秒8! シロガネノミチ、リードを広げます! 2馬身から4馬身!」
先頭の芦毛の首がぐんぐん前へ出ていく。あの細い首だ。後ろではテンカザクラが3番手の外を回っている。俺の馬はまだ7番手。須賀の背中は、動かない。
まだだ。まだ、何も動いてない。
17頭がスタンド前を過ぎ、白い壁の向こう、1コーナーへ吸い込まれていく。黒鹿毛の尻尾が、遠ざかる。俺はその背中を見送りながら、手すりから手を離さなかった。
1コーナーを回って17頭の列がぐっと内へ寄る。白い壁の下を、芦毛の尻尾がひときわ高く跳ねた。
「1コーナー通過! シロガネノミチ、リード4馬身!」
2コーナーを抜けて2周目の向正面へ。ここからが長い。長い直線の半ばから、3コーナーへ向けて上り坂が始まる。
実況が声を張り上げた。
「2周目の向正面、シロガネノミチのリードが6馬身に広がりました!」
芦毛の首が、前へ前へと伸びていく。細い首なのに、ちっとも苦しそうじゃない。奏が双眼鏡を構えたまま、短く言った。
「ペース落ちてない」
「……え」
「あの馬、息を入れてない。フォームが変わってない」
本当だ。他の馬たちの脚が重くなっていく中で、2番の芦毛だけが同じリズムで芝を刻んでいる。息を継ぐ場所を、自分で捨てているみたいだった。
後ろの客が叫んだ。
「誰か行けよ!」
「このままだと逃げ切られるぞ!」
でも、誰も動かない。前に行く馬がいない。行けないのだ。16頭が、あの背中を見送るしかない。
「残り1400、シロガネノミチのリードは8馬身!」
俺は手すりを握ったまま、声を張った。
「そのスタミナ、いつまで保つんだよ!!」
「こっちの脚、まだ温存してるんだぞ!!」
声はスタンドの歓声に溶けた。その時、外から馬が上がってきた。テンカザクラだ。3番手の外から、2番手の外へ。桜庭の馬がようやく重い腰を上げた。
俺の馬は、前から7番手の内のまま。先頭からは12馬身ほど。白に青の二本輪は、まだ動かない。須賀の手綱はピクリともしなかった。
パドックで聞いた声が、耳の奥でよみがえる。
「2回目は、僕が決めます」
俺はポケットの中で万年筆を握った。馬は遠い。表示は見えない。ただ、冷たい軸だけが手のひらにあった。
先頭の芦毛が向正面の半ばから3コーナーへの上り坂に差しかかる。
須賀の手綱は、まだ動いていない。




