春の天井
細い首が前へ前へと伸びる。後ろの馬たちの首が一斉に下がっていく中で、あの馬だけが同じ高さを保っていた。
「あの馬、坂でも脚の回転数が落ちない」
奏の声が鋭くなる。本当だ。8馬身あったリードは、坂の半ばで6馬身まで縮んだ。それでも、まだ6馬身だ。
「縮んだ」
「うん。でも、苦しくなってるわけじゃない。あれは息を入れにいっただけ」
奏の言葉に、後ろの観客が叫ぶ。
「テンカザクラ行け!」
「内から何か来いよ!」
外から桜庭の馬が動いた。2番手の外のテンカザクラが、坂の上りでさらに前との差を詰める。その背中を追って、他の馬もじわじわと前へ出始める。俺は視界の端で黒鹿毛を探す。前から7番手の内。須賀の手綱は、まだ動かない。先頭との差は12馬身。
「残り800! 淀の坂の頂上を越えた! 先頭は依然シロガネノミチ! 6馬身のリード!」
実況が声を張り上げる。その瞬間だった。内にいた白に青の二本輪が、ふっと外へ切れ込んだ。
「……動いた」
奏が短く言った。俺は手すりから手を離さない。須賀の腕が動いた。手綱が外へ開いて、黒鹿毛の首がすっと横を向く。前の馬の尻を避けて、馬群の外側へ出る。内から外へ。1頭ぶん、2頭ぶん馬体が芝を横切る。坂の頂上で、黒鹿毛が完全に外へ持ち出された。
「アサツユ動いた! 外から一気に進出! 先頭との差を詰めにいきます!」
下りだ。
ターフビジョンの中で芦毛がわずかに外へ膨らむ。細い首が一瞬だけ横を向いて、それでも脚は止まらない。6馬身あったリードが、4馬身。
「アサツユが来た!」
誰かが叫んだ。俺は手すりを握ったまま、目だけで黒鹿毛を追う。外へ切れ込んだ白に青の背中が、1頭、また1頭と前を呑んでいく。7番手が4番手になり、直線の入口で3番手の外。先頭との差は、まだ5馬身。8馬身あったリードが、ゲームなら絶対に取り返せない数字が、淀の下りでみるみる溶けていく。
「まだ芦毛だろ!」
別の声が飛ぶ。スタンドの空気が真っ二つに割れて、どちらの悲鳴か分からない歓声が芝の上を走り抜ける。
テンカザクラが動いた。2番手の外、桜庭の馬がついに手綱をしごかれる。首がぐっと上がって、前へ出る。
俺の馬は――須賀の腕がまだ外へ開いたままだ。
脚は残っている。残っているはずだ。残っているんじゃなくて、残している。そう信じるしかない。
「4コーナーを回って直線!」
実況が叫ぶ。先頭シロガネノミチ。2番手テンカザクラ。3番手の外に、アサツユ。先頭と5馬身差。白い直線が、目の前でまっすぐに伸びていた。
俺は唇を引き結んで、その背中を見ていた。
先頭はまだ芦毛だ。細い首がちっとも下がらない。残り400を切ったのに、あの馬はまだ止まる気配がない。手すりに腹を押しつけたまま、俺は息を止めた。
「シロガネノミチ先頭! 粘る! 粘りに粘って残り300!」
後ろの客の怒号が耳を裂く。
「差せ!」
「捕まえろ!」
2番手の外からテンカザクラが並びかける。額の小さな星が、芦毛の横に白く光る。残り200。桜庭の馬が先頭に並んだ。いや、わずかに出たか。スタンドがどよめく。
俺は黒鹿毛だけを見ていた。
外だ。外の白に青の二本輪が脚色を変えずに伸びている。須賀の背中がぴたりと貼りついて、黒鹿毛の首が低く前へ突き出されていく。一完歩ごとに芝を呑んで、残り100で芦毛とテンカザクラの外に並びかけた。
「アサツユが来たァ!!」
実況の絶叫がスタンドの空気を縦に裂いた。俺は手すりを握りしめたまま、喉の奥から声を絞り出した。
「行けぇアサツユ!!」
奏が隣で叫ぶ。
「脚、まだ残ってる!!」
残り50。黒鹿毛の耳が後ろへ絞られる。その耳が、一瞬で前に戻った。須賀が外から一発だけ鞭を入れる。黒鹿毛の背中が、ばねが弾けるみたいに沈んで伸びた。
「アサツユ先頭! アサツユ抜けた! アサツユ1着でゴール!!」
白に青の背中が先頭でゴール板を駆け抜ける。芦毛との差は1馬身と4分の1。3着のテンカザクラは、そのさらにクビ差後ろで入線していた。
黒鹿毛はゴールを過ぎてもまだ脚を緩めず、首を大きく左右に振って減速に入っていた。
スタンドの空気がふっと緩む。歓声が抜けていく。着順掲示板に数字が点った。1着、11。2着、2。3着、7。勝ち時計は3分14秒7。あとで、アサツユの上がり3ハロンが34秒9だったと知った。俺は数字を、声に出さずに唇だけで繰り返した。
隣の奏が、ようやく双眼鏡を下ろす。口が小さく開いたまま、しばらく声にならない。俺も手すりから指を離すのがやっとだった。
「……勝った」
自分の声じゃないみたいに低い声が出た。奏が、こくんと頷く。それから、笑ったのか泣いたのか分からない顔で、俺の袖をぎゅっと握った。
検量室の前。検量を終えた須賀が、汗で頬を光らせたまま俺の前に立った。
「2回目は、決められました」
そう言って、白い歯を見せる。俺は何か言おうとして、喉がつかえて結局「……お疲れさまです」と頭を下げた。須賀は少しだけ笑って、先生のほうへ歩いていく。
通路の脇で、先生がネクタイを直していた。
「オーナー、おめでとうございます」
声はいつもどおり短い。でも、目だけが笑っていた。
「須賀さんが、全部決めました」
「……オーナーの馬ですよ」
先生はそれだけ言うと、検量室のほうへ消えていった。
ウイナーズサークル。口取りの写真。検量を終えて再び跨った須賀を乗せた黒鹿毛の隣に立つと、汗で黒光りした首が、カメラのほうへぐいと伸びた。係員に笑われた。観客の声が降ってくる。
「ハヤテがいなくても強えな」
「3200もいけるのかよ、あれ」
いけるんです。俺が育てたんじゃない。あの馬が勝手に強くなった。俺はただ、万年筆を握って数字を見てただけだ。
担当さんがアサツユを引いて洗い場へ向かう。尻尾をゆらゆら揺らして、勝った馬の背中はどこか誇らしげだった。俺はその背中を、人混みの向こうへ消えるまで見送っていた。
表彰を終えて関係者通路へ戻ると、壁際にスーツ姿の貴之が立っていた。俺の顔を見ると、すっと歩み寄ってきて右手を差し出す。
「……勝たせるつもりだった。本当だ」
声は穏やかなのに、指先に力がこもっていた。俺はその手を握り返す。
「勝たせてもらいました」
「いい馬だね、陸くん」
貴之はそう言って少しだけ笑った。負けた生産者の顔じゃない。自分の数字がひとつ外れたことを、静かに受け入れている顔だった。
「お父さん」
隣から声がした。奏だ。人前で、そう呼ぶのは初めてだった。貴之は一瞬だけ娘を見て、それからゆっくり瞬きをした。
「ああ。……よく見ておきなさい」
奏は何も言わず、背筋を伸ばしたまま頷いた。
「3200は、あの子の距離だ。次も来るよ」
あの子、とはシロガネノミチのことだ。2着に負けてなお、この人はそう言う。その言葉に、負け惜しみの匂いはなかった。
「うちの馬も、また走ります」
俺が言うと、貴之は口元だけで笑ってスーツの襟を軽く正した。
「楽しみだね」
その時、少し離れた柱の影から桜庭が歩み出てきた。スーツのポケットに手を突っ込んだまま、俺の前で足を止める。
「借りは返してもらったよ」
大阪杯では向こうが2着で、うちが3着だった。今日は、その逆になった。桜庭の声は妙に軽かった。
「宝塚で、また会おう」
ハヤテノオウが待っている、という意味だ。俺は黙って頷く。桜庭は口の端を上げると、人波のほうへ歩き出した。
貴之が、その背中を見送ってから奏のほうへ半歩寄る。何か言いかけて、やめた。代わりに俺へ向き直り、小さく片手を上げる。
「じゃあね」
それだけ言って、スーツの背中は通路の向こうへ消えていった。
奏が、その後ろ姿をじっと見ていた。俺たちはしばらく、並んだまま黙っていた。スタンドの歓声が、遠くでまだ続いていた。
◇
夕方、洗い場の脇。アサツユが汗を流してもらっている。黒鹿毛の背中に水がかけられて、白い泡が足もとの排水溝へ流れていく。時折ぶるっと首を振る。勝った馬の癖なのか、やけに機嫌が良さそうだった。
俺はポケットの中で万年筆を握る。冷たい軸。視界の端に、半透明の文字が浮かぶ。
【スピード:A+】 【スタミナ:A+】 【パワー:A+】 【根性:A+】 【賢さ:S】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
数値は変わらない。どれもパドックと同じだ。ただ――パドックで揺れていた【隠れ適性:中距離向き】の1行だけが、ゆっくりと別の文字に書き換わっていく。
【隠れ適性:中長距離向き】
文字の濃さがほかの行と同じに戻る。端の揺れも消えている。俺は万年筆を握ったまま、その1行をじっと見つめた。
更新待ちは、当たっていた。誰にも言わない。言えるわけがない。ただ、あの1行が書き換わる瞬間を俺は確かに見た。それだけだ。
「オーナー」
声のほうへ顔を向けると先生が隣に立っていた。白いシャツの袖をまくって、アサツユの首を眺めている。
「春は、どうしますか」
先生はアサツユの首を撫でたまま、馬を見て言った。
奏が洗い場の向こうからこちらを見ている。何も言わない。俺は万年筆をポケットへ戻して、濡れた黒鹿毛の背中を見た。
「……考えます」
先生は小さく頷いてそれ以上は何も言わなかった。アサツユが長い首を伸ばして、俺の帽子のつばを鼻先でつつく。




