月曜の放牧地
軽トラの助手席で揺られながら、俺はまだ京都の残像を引きずっていた。スタンドの熱気、ゴール板を駆け抜ける白に青の二本輪、須賀の白い歯。全部が夢みたいに遠い。
日高の空気はひんやりしている。窓を開けると、牧草と土の匂いがした。ようやく帰ってきた、という実感がじわじわと胸に広がる。
軽トラが事務所の前に停まる。奏が先に降りて、荷台から荷物を下ろし始めた。俺も後ろへ回って、荷物を引きずり出す。
「先、放牧地見てくる」
奏が手を止めて頷く。俺は長靴に履き替えて、足早に柵の方へ向かった。
夕陽が牧草地を橙色に染めている。遠くでシズクとサザナミが並んで草を食んでいた。2頭とも、腹に仔がいるとは思えない軽い足取りだ。どちらも、こっちには目もくれない。
柵の手前、宮田が立っていた。いつもの作業着の背中で、こちらを振り向きもしない。俺はその隣に並んで、しばらく黙って馬たちを眺めた。
「……宮田さん」
声をかけると宮田はようやくこちらを見た。口元がほんの少しだけ動く。
「……見とった」
それだけ言って、また放牧地のほうへ目を戻した。俺は何も言えなくなって、ただ隣で同じ方角を見ていた。
荷物を置き終えた奏が、少し遅れて柵のほうへ歩いてきた。長靴が砂利を踏む音が、夕方の牧草地にやけに響く。奏は俺の隣に並ぶと、柵の横木に両腕を乗せて遠くの2頭へ向かって少しだけ声を張った。
「シズク、サザナミ。ただいま」
馬にだけ向けるあの柔らかい声だった。2頭は顔も上げない。耳だけがこちらへ向いて、それからまた草のほうへ戻る。まったく、そっけない挨拶だ。
宮田は2頭の腹のあたりをじっと見たまま、ふっと息を吐いた。
「……あの坂で、よう我慢した」
誰に言うでもない独り言だった。俺は宮田の横顔を見て、それから「はい」とだけ答えた。宮田は頷きもしない。ただ、目を細めたまま2頭の腹を見ていた。
やがて宮田は作業着の裾を払うようにして、黙って厩舎のほうへ歩き出した。背中はいつもどおり無骨で、振り返らない。
俺と奏は柵に並んだまま、仔を宿した2頭がのんびり草を食む背中を眺めていた。
◇
事務所のドアを開けると、しんと冷えた空気が足もとに溜まっていた。
テレビは消えている。画面の前に置かれたパイプ椅子が、壁際に押しやられたまま斜めになっていた。座面に手を触れると、ひんやりしている。
机の上には湯呑みがひとつ。茶柱も立たず、縁に薄い茶渋が残っている。俺はそれを手に取って、中身を流しに捨てた。冷たい茶が音を立てて排水口へ落ちていく。
パイプ椅子を元の位置へ戻す。床に擦れる音が、妙に大きく響いた。
◇
夜、ひなた牧場の事務所。俺は机に向かって手帳を開いていた。5月2日の欄に、ボールペンで「1着、3分14秒7」とだけ書き足す。数字が並ぶと、ようやくあのレースが現実だったんだと腑に落ちる。
向かいから、湯呑みが2つ、とん、と置かれた。奏が俺の正面の椅子に座る。一つ結びの先が、まだ少しだけ跳ねていた。
「書くこと、それだけ?」
「うん。数字があれば十分だろ」
俺が顔を上げると、奏は自分の湯呑みを両手で包んで、ふうっと息を吐いた。窓の外はもう暗い。牧草地の匂いが、網戸越しに薄く入ってくる。
「陸、あのね」
奏が少しだけ前のめりになる。声は落ち着いていて、獣医の顔に戻っていた。
「先生から連絡があったよ。アサツユは大丈夫。明日の朝、また電話するって」
俺は手帳を閉じて、湯呑みを持ち上げる。熱い。黙って一口飲んだ。
「……うん」
奏は俺の顔をじっと見てから、小さく息を継いだ。
「今夜じゃなくていいよ。先生は待ってるけど」
「分かってる」
手帳を開いたまま、俺は先生とのやりとりを思い出していた。レースのあと、洗い場の脇で「春は、どうしますか」と聞かれて俺は「考えます」と答えた。本当は、そのときにもう心のどこかで決めていたのかもしれない。1月に先生へ言った言葉が、頭に浮かぶ。
「春は、日本で勝ちたい相手がいるので」
「陸」
奏が湯呑みを両手で包んだまま、前のめりになる。
「次の候補だけど、6月の2週目の日曜。阪神の芝2200。宝塚記念」
俺は黙って聞いていた。
「ハヤテノオウは新聞に出てたとおり、そこへ直行するって」
頭の片隅で、桜庭の声が再生される。「宝塚で、また会おう」。桜庭は最初から、うちの馬がここへ来ると思っていたのかもしれない。
阪神の2200。俺は手帳の端を親指でなぞりながら、記憶をたどる。3歳の2月、すみれステークス。テンカザクラにハナ差で負けたコースだ。阪神の内回りだ。あの日、須賀が自分から頭を下げたのを覚えている。
「3200のあとでも、中距離なら間隔は問題ないよ」
奏の声は落ち着いていた。数字を積み上げるような、淡々とした言い方だ。
「6週あるから、回復は足りるよ。むしろ休み明けより動けるかもしれない」
俺は手帳の新しいページを開いた。ボールペンの先を、空白の上で一度止める。蛍光灯の下、紙が白い。
書くべきことは、たぶんこれだけだ。
6/13 阪神 2200
ペン先が紙を走る音が、静かな事務所にやけに大きく響いた。
◇
朝の厩舎は、しんと冷えていた。壁板の隙間から差す光が、埃を白く浮かび上がらせている。俺は宮田の隣で飼い葉桶を抱え、シズクの房へ運んだ。桶を置く音が、やけに大きく響く。
シズクが首を伸ばして、桶の縁に鼻先を寄せる。サザナミも隣の房から顔だけ出して、こちらの様子を窺っていた。宮田は無言で桶を2つ並べると、片方の縁を親指でこつんと叩いた。
「食え」
短い声。シズクが耳をぴくりと動かして、ゆっくりと飼い葉に口をつける。サザナミも続いた。静かな咀嚼の音が、朝の厩舎に満ちていく。
宮田は2頭の腹のあたりを、じっと見ていた。日の光が、2頭の背中をつやつやと光らせている。
「……腹の仔も、順調だ」
◇
朝の事務所はまだ冷えていた。窓の外では、牧草が朝露で光っている。俺は机の前に座ったまま、手帳を開いたり閉じたりしていた。
電話が鳴ったのはちょうど湯呑みに口をつけたときだ。受話器を取ると、聞き慣れた短い声が耳に届く。
「おはようございます、オーナー」
「おはようございます」
「今朝、馬房でアサツユが担当の帽子を鼻でつつきに来ましてね」
先生の声は、相変わらず淡々としている。でも、その奥にわずかな笑いが混じっていた。俺は思わず、ふっと息を漏らす。
「そうですか」
「ええ。一昨日あれだけ走ったというのに、ずいぶん元気ですよ」
「あいつ、勝つと機嫌がいいんです」
俺が言うと、受話器の向こうで先生が小さく笑った。それから、一拍置いて声の温度がほんの少しだけ真面目なものに変わる。
「それで、春の残りは」
俺は受話器を肩に挟んだまま手帳のページを指でなぞる。白い紙に、昨夜書いたばかりの文字。
「……宝塚、行きます。脚に熱が出なければ、ですが」
「分かりました」
先生の返事は迷いがなかった。待っていたわけでも、急かしたわけでもない。ただこちらの言葉をそのまま受け取るような声だ。
「須賀にも伝えておきます」
「お願いします」
「ハヤテノオウも、宝塚へ直行だそうです」
「……上等です」
電話を切る。ツー、という電子音が静かな部屋に溶けていく。
俺は手帳を開いたまま昨夜のページを見つめた。そしてボールペンを手に取ると、書きつけておいた「6/13 阪神 2200」の横に、小さな丸をひとつ付けた。




