隣の柵
夕方の放牧地は草の匂いが濃く立ちこめていた。西日がシズクとサザナミの背中を橙色に縁取っている。2頭は並んで首を下げ、むしゃむしゃと草を食んでいた。
俺が柵に近づくと、奏がこちらへ半歩寄ってくる。一つ結びの毛先が、風に揺れていた。
「2頭とも、変わりなし」
短い報告。声は落ち着いていて、獣医の顔だ。
「種付けから、そろそろ3か月。腹はまだ目立たないね」
奏は2頭の腹のあたりへ目を向けたまま続けた。確かに、どちらも妊娠しているとは思えないほどすらりとした腹をしている。
「無事に春を迎えられれば、ね」
奏が言い、俺は黙って頷いた。
そのとき、砂利道のほうから軽トラの音が聞こえた。見ると、三上さんの白い軽トラが土埃を巻き上げながら牧場へ入ってくるところだった。窓から太い腕が出ていて、大きく手を振っている。
「若旦那ぁ!」
夕方の牧草地に、やけに元気な大声が響き渡る。シズクが顔を上げ、迷惑そうに耳をぴくりと動かした。
軽トラの運転席から三上さんが転がるように降りてくる。手には携帯電話。その画面を、俺の鼻先へぐいっと突きつけてきた。
「若旦那、見ろって! 宝塚のファン投票、最終結果だぞ!」
画面には見慣れた馬名が並んでいる。1位、アサツユ。2位、ハヤテノオウ。票数までは読まない。でも、順位だけで十分だった。
「1位だぞ、1位!」
三上さんは俺の肩をばしばし叩いてくる。痛い。
「……そうですか」
俺がそれだけ言うと、三上さんは目を丸くした。口を開けたまま、しばらく俺の顔をまじまじと見る。
「おいおい、反応薄すぎだろ。もっと喜べって。ファン投票1位だぞ? 全国の競馬ファンが、お前んとこの馬に投票したんだぞ」
「ありがたいことです」
「棒読みか!」
三上さんが天を仰いだ。隣で奏が、くすっと笑って俺の腕をつつく。
「すごいじゃん、陸。春の天皇賞を勝った直後の投票で、古馬の王者を抑えて1位だよ」
「まあ、ファン投票は人気投票だからな」
「またそういうこと言う」
奏は呆れた顔で笑った。でも声が弾んでいる。三上さんは携帯を尻ポケットにねじ込みながら、まだ何か言いたそうにしていた。
「ったく、若旦那は若いのに枯れすぎだろ。俺が代わりに一晩騒いでやろうか」
「どうぞご自由に」
「お前なぁ……」
三上さんは大きなため息をついた。それから、ふと声を潜める。
「……それより、吉岡さんとこの話な」
さっきまでのはしゃぎようが、ぴたりと止んだ。俺は柵の横木へ寄りかかったまま、ゆっくりと三上さんの顔を見た。
三上さんは続けた。
「吉岡さんとこ、跡継ぎがいねえだろ。2年前に最後の繁殖も手放して、あの放牧地ずっと空いてる。それでよ、桜庭ステーブルが買う話もうほぼ決まってるらしいんだわ。夏のうちに判子を押すって話だ」
俺は黙って聞いていた。
「この前の公民館の寄り合いで、本人から聞いた。もう売る気固めてたな」
三上さんはそう言って、太い指で自分の首の後ろをがりがりと掻いた。
「お前んとこ、地続きだろ。境の柵、共用だったよな」
俺は頷いた。隣で奏が何も言わない。夕陽が、彼女の横顔を橙色に染めている。唇が、ほんの少しだけ引き結ばれていた。
「俺が言ってもしょうがねえけどな」
三上さんはそれだけ言うと軽トラのドアを開けた。車体がぎしっと軋む。
「宝塚、楽しみにしてっからな。応援すっからよ」
その声は、またいつもの調子に戻っていた。俺が頷くと、三上さんは太い腕でひらひらと手を振って運転席へ乗り込んだ。
軽トラが土埃を上げて去っていく。後ろ姿が小さくなり、やがて砂利道の向こうへ消えた。あたりに静けさが戻る。夕方の風が、伸びすぎた牧草をざわざわと揺らしていた。
俺は境の柵のほうを向いた。白っぽく乾いた木の柵が、西日に照らされて長い影を落としている。向こう側の放牧地は、馬が1頭もいない。草は好き放題に伸びて、ところどころが波打っていた。杭が1本、内側へ傾いている。風が吹くたび、草の穂が白く光る。
頭の隅で、声がした。うちが買えば。あの土地を、うちで。馬のいない放牧地をそのままにはしておけない。広げられる。仔を宿した2頭の仔が走り回れる場所になる。そう思った。
だが、すぐに打ち消した。いくらで売るかも知らない。桜庭ステーブルがもう値段まで詰めている話だ。俺たちの手が届く額なのかも分からない。何より、宝塚の前に決められることじゃない。勝手に頭が動いて、勝手に熱くなっただけだ。
奏が隣へ来て、何も言わずに同じ柵を見た。その横顔は、さっきより少しだけ大人びて見えた。
「……戻るか」
俺が言うと、奏は小さく頷いた。でも俺の足は動かなかった。柵の向こうの空っぽの放牧地が、夕陽に染まったままやけに広く見えた。
◇
夜の厩舎はしんと静まり返っていた。壁板の向こうから、牧草の匂いと土の匂いが冷たい空気に混じって流れ込んでくる。飼い葉をやり終えた馬たちが、時折小さく鼻を鳴らす音だけが聞こえた。
俺は最後の桶を戻してから、宮田の背中へ声をかけた。
「宮田さん、吉岡さんの土地の話聞きました」
宮田は桶を洗う手を止めなかった。水の音が一定の間隔で続く。しばらくして、低い声が返ってくる。
「……知っとった」
短い返事だった。公民館の噂はもう回っている。この町ではそういうものだ。俺が知ったときには、みんな知っている。
「桜庭が買うって話、ほぼ決まったらしいです」
宮田は桶を流しに置いて作業着の袖で手を拭いた。それからようやく俺のほうへ体ごと向き直る。目が、夜の厩舎の奥で光っていた。
「吉岡の爺さんは先代と同い年だ」
宮田はぽつりと言った。俺はその言葉で、爺さんの背中を思い出していた。
生きていたころ爺さんはときどき境の柵まで歩いていった。杖もつかずに、ゆっくりと。そして吉岡さんとこの奥の放牧地を、長いこと眺めていた。何を見ているのか聞いたことがある。爺さんは「別に」としか言わなかった。あの頃の俺は、年寄りの散歩だろうくらいにしか思っていなかった。
「宮田さんは、どう思いますか」
俺は聞いた。声が、夜の厩舎にしんと落ちる。
宮田は答えなかった。代わりに、馬房の掛け金をひとつずつ確かめ始めた。かちゃ、かちゃと乾いた音が順に続く。シズクの房、サザナミの房、その次、その次。全部を確かめてから俺のほうへは振り向かずに言った。
「……あそこの奥の放牧地は、水はけがええ」
それだけだった。
(爺さんが見ていたのは、それだったのか)
頭の中で、あの柵の前の背中と雨上がりの放牧地が重なる。水たまりのできない土地。仔が脚を傷めない土地。爺さんはそれを、黙って見ていたのか。
宮田はそれ以上、何も言わなかった。説明も付け足しもない。俺も、それ以上は聞かなかった。
宮田が厩舎の明かりの紐を引く。ぱちん、と音がして、天井の裸電球が消えた。暗がりに、馬たちの寝息と牧草の匂いだけが残る。
「寝ろ」
その声に背中を押されて、俺は厩舎の戸をくぐった。
◇
事務所の明かりが窓の黒を四角く切り取っていた。机の上で奏が帳面を開いている。体温、飼い葉の量。数字が几帳面に並んでいた。俺が戸を閉めると、奏はペンを止めて顔を上げる。
「柵のとこ、黙ってたのはね」
奏は帳面の端を指で押さえたまま、少し言いにくそうに口を開いた。
「境の柵のそばの区画は、シズクとサザナミがいちばんよく使う場所なの」
「うん」
「隣に桜庭さんの若い馬がたくさん入ったら、柵越しに鼻を合わせて病気をもらうこともあるよ」
俺は奏の顔を見た。聞き返した声が、自分でも間抜けに聞こえた。
「……病気」
「そう。移動の多い育成馬は、いろいろ運んでくるから。身重の2頭には、熱がいちばん怖い。仔を落とすこともある」
奏の声は淡々としていた。獣医の声だ。感情を削いで、事実だけを置いていく。それから少しだけ間を置いて、付け足すように言った。
「桜庭さんが悪いって話じゃないよ」
「……そうだな」
俺はそれしか言えなかった。頭の中で、柵の向こうの伸び放題の草が揺れていた。あの土地が誰のものになるかで、うちの2頭の安全が変わる。単純な話だった。単純すぎて、腹の底が重い。
奏は帳面を閉じ、椅子を引いて立った。
「おやすみ」
「おやすみ」
戸が開いて、夜の空気が一瞬だけ入ってくる。閉まる。足音が砂利を踏んで遠ざかった。少しして、外で奏の軽トラのエンジンがかかる音がした。低い音が闇に溶けていく。やがてそれは細くなって、聞こえなくなった。
机の上の手帳を開く。蛍光灯の白い光の下で、「6/13 阪神 2200」の横の丸がやけにくっきり見える。
机の端で携帯が震えた。ぶぶと低く唸る。画面を開くと、差出人は桜庭玲司。文面は短い。
『ファン投票1位、おめでとう。宝塚の前に一度そっちへ寄らせてもらう。隣の件で、君に話がある』
俺はしばらくその文字列を眺めた。土地を買うのはあっちのほうなのに、なぜわざわざ俺に話があるのか。こっちの許可が要る話でもないし、ましてや相談される筋合いもない。
(なんだ、宣戦布告か。それともただの挨拶か)
返信の画面を開く。指が止まる。最後に桜庭さんへ返したのは大阪杯のあとだ。負けました。京都で。あのときの俺は、それ以上何も書けなかった。
『待ってます』
打ち込んで、送信する。画面が一瞬白く光って、送信済みの文字が小さく表示された。




