柵のこちら側
6月1日(火)の昼すぎ。
宝塚記念まであと2週間もない。俺は放牧地の柵のそばで、2頭の体温を測りに来た奏と並んで、玲司を待っていた。朝から落ち着かない。手帳を開いても数字が頭に入ってこない。シズクとサザナミは、そんなこちらの事情など知らぬ顔で、のんびり草を食んでいる。
砂利道のほうから、低いエンジン音が近づいてきた。黒い車が牧場の入口をくぐる。そして――放牧地からいちばん遠い端に、すっと停まった。
(馬を驚かせない気遣い、か)
気づいたが、口には出さない。そういうところだけ、あの人は丁寧なのだ。隣で奏が、測りかけの体温計を手の中で止めた。
ドアが開いて玲司が降りてくる。夏の薄いシャツ。袖が風にはためいて、日差しの下で白く光った。帽子はかぶっていない。髪が、少しだけ乱れている。
「急に悪いね、日向くん」
「待ってました」
玲司は柵から半歩離れて2頭を順に見た。その目が、サザナミの腹のあたりで止まる。
「……腹、できてきたね」
「まだ目立たないよ。でも順調」
奏が体温計を胸のポケットに戻しながら答えた。玲司は頷いて、それから少しだけ目を細める。データを見る目だ。血統を値段に換算する目。
(その目で、うちの馬を見るなよ)
俺は柵の横木に手を置いたまま口を開いた。
「桜庭さんのとこで『整理』された馬ですけどね」
玲司の肩が、ほんのわずかに止まった。ゆっくりとサザナミから目を離さないまま、低い声で言う。
「……分かってる。だから、君に返したんだ」
いつもの余裕が、少しだけ崩れていた。言い返すでもなく、笑うでもなくただ事実として置いた。奏が黙って、2頭のほうへ目を戻す。草を食む音だけが、しばらく場に残った。
やがて玲司は、ふっと息を吐いて顔を上げた。そして境の柵のほうへ目をやる。白っぽい木の柵。その向こうの、草の伸び放題の放牧地。
「歩きながら話そう」
俺は黙って横木から手を離し、玲司の半歩後ろを歩いた。長靴が草を踏む音と、向こうの放牧地を渡る風の音だけが聞こえる。白っぽい柵が近づく。杭が1本、内側へ傾いていた。
玲司は柵の手前で足を止め、向こうの草を見たまま言った。
「単刀直入に言うよ。会長はあの土地を、桜庭の若馬の放牧地にするつもりだ」
前置きも、笑いもなかった。俺は傾いた杭を見ながら頷く。
「吉岡さんは、売るにあたって条件を一つ付けた」
「条件?」
「『売る前に、ひなたの若いのに一度聞いてくれ。権三郎との約束だ』」
俺は玲司の横顔を見た。権三郎。爺さんの名前だ。
「昔、君のところの先代と吉岡さんは決めてたらしい。どっちかがやめるときは、隣に先に声をかけると」
風が吹いて、柵の向こうの草穂が白く波打った。
「なんで吉岡さん本人が、俺に言わないんですか」
玲司は少しだけ間を置いた。
「自分から言えば、頼みごとになる。権三郎さんの孫に、金の話で頭を下げさせたくないそうだ」
俺は何も言えなかった。傾いた杭が、やけに遠く見えた。
「会長はその条件を知ってた。それでも君には伝えずに進めるつもりだった」
玲司はそこで初めてこちらへ向き直った。日差しの下で、その目はやけにまっすぐだった。
「だから、僕が来た」
「……会長は知ってるんですか。桜庭さんが、ここに来たこと」
俺が聞くと、玲司は柵の向こうを見たまま首を振った。
「言っていない」
風が草穂を撫でていく。白っぽい柵の向こうは、相変わらず馬が1頭もいない。傾いた杭だけが、ぽつんと立っている。
「なんで俺に教えるんですか。黙ってれば、桜庭さんのものになるのに」
玲司はすぐには答えなかった。横顔のまま、指先で柵の木を軽く叩く。とん、とん、と乾いた音が二つ。
「条件を守るのは当然だろう」
「はぐらかしましたね」
俺が言うと、玲司の口元がわずかに動いた。笑いとも違う、息のようなものだ。
「当然なら、会長も守ってます」
そこまで言って、俺は自分の声が少し硬くなっているのに気づいた。玲司は黙った。一拍、二拍。草の向こうを渡る風の音がやけに大きく聞こえる。
やがて玲司は柵の向こうへ目を戻し、静かに言った。
「欲しいものは勝って取る。……レースと同じだよ」
「期限は」
俺が聞くと、玲司は柵の向こうを見たまま答えた。
「吉岡さんは宝塚記念の次の週に判子を押す。それまでに、君が吉岡さんに返事をすること」
「値段は」
「値段は吉岡さんと話してくれ」
それだけ言って玲司は車のほうへ歩き出した。長靴じゃない靴が、草を踏んで静かに進む。数歩で止まり、振り返らずに言う。
「返事は吉岡さんにしてくれ。僕にじゃない」
背中が小さく動いて、それからまた歩き出した。黒いドアの前で一度だけ振り返る。
「じゃあ阪神で」
「はい。阪神で」
ドアが閉まる。エンジンがかかって、車は放牧地からいちばん遠い側をゆっくりと回り、砂利道を出ていった。土埃が薄く立ちのぼる。それが晴れるころには、車はもう見えなかった。
奏が2頭のそばから歩いてきた。長靴が草を踏む音が近づいて、俺の隣で止まる。
「何の話だったの」
俺は傾いた杭を見たまま、短く話した。吉岡さんが売る前にひなたへ一度聞いてくれと条件を付けたこと。爺さんとの約束だということ。判子を押すのは宝塚記念の次の週だということ。
奏はしばらく黙っていた。風が草穂を撫でていく音だけが聞こえる。
「うちのものになれば、境の区画のことは心配しなくてよくなるね」
獣医の顔でそう言って、すぐに首を振る。
「でもお金の話は私には分からない。陸が決めて」
それだけ言うと奏は胸のポケットから小さな記録帳を出して俺の前に開いた。シズクとサザナミの体温が、数字で並んでいる。
「平熱。2頭とも問題なし」
「ありがとう」
奏は帳面を閉じて、2頭のほうへ歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、俺はもう一度境の柵の向こうを見た。
◇
夕方、厩舎に戻ると宮田が飼い葉の支度をしていた。戸口のほうを一瞬だけ見て、また手を動かす。昼に玲司の車が出ていくのを、あの背中はきっと見ていた。
「……桜庭のせがれか」
ぼそりと呟いた。俺は桶を一つ持ち上げて隣に並ぶ。
「はい。吉岡さんの条件と期限の話でした」
手を止めずに宮田は聞いていた。俺が話し終えると、しばらく杓を動かす音だけが続く。それから低い声が返る。
「……先代と吉岡の爺さんが、そういう話をしとったのは知っとる」
宮田は杓を止めない。俺は黙って続きを待った。
「昔な。吉岡の馬が冬に疝痛を起こした夜があってな。先代が柵またいで行って、朝まで付き添った。そのあと2人で酒飲みながら『どっちかがやめるときは、隣に先に言う』と決めとった」
杓が桶の縁をこつんと叩く。
「わしは、聞いとっただけだ」
それだけだった。俺は桶を持ったまま、境の柵の向こうを思い浮かべていた。
「宮田さん」
俺は意を決して口を開く。
「……うちに、買えると思いますか」
宮田は答えなかった。桶を静かに置いて、作業着の袖で手を拭う。それから少しの間、厩舎の奥の暗がりを見ていた。
「お前の牧場だ」
振り向かずにそう言って、宮田は奥の馬房へ入っていった。
日が落ちかけたころ俺はひとりで境の柵まで戻った。白っぽい木が西日を吸って、昼より少し赤い。傾いた杭の前に立つと、爺さんの背中が思い出された。杖もつかずにここへ来て、黙って奥の放牧地を眺めていた。あの背中と吉岡さんの間に、どんな言葉が交わされていたのか。今さら聞く相手はもういない。
厩舎のほうから桶を洗う水の音が途切れなく聞こえてくる。宮田はこっちを見ない。見ないまま、そこにいる。
パーカーのポケットから手帳を出して開く。「6/13 阪神 2200」の横に、丸がひとつ。俺はその下の余白に目を落とした。頭の中で算盤をはじく。繁殖の2頭にかかる金。来年の春のお産。餌代。獣医代。そして宝塚の賞金――勝てば、届くかもしれない。
丸の下に、ボールペンで小さく「吉岡さん」と書き足す。書いた瞬間、妙に指先が重くなった。
(返事をする相手は、もう決まっている)




