同じ値段
「……来たか」
6月2日(水)、朝の空気はまだ冷えていた。吉岡さんは母屋の前の縁台で、長靴の泥を小刀でこそげ落としている。背中は丸く、顔は上げない。泥がぽろぽろと縁台の下へ落ちていった。
「おはようございます。桜庭さんから、聞きました」
俺が言うと、小刀の手が止まった。しばらくして低い声が返る。
「桜庭の若いの、ちゃんと言いに行ったか」
「昨日、来ました」
「おう」
それきりだった。吉岡さんはまた泥をこそげ始める。俺は空の馬房と乾いた水桶に目をやった。どちらもきちんと片付けられていて、もう2年、馬の気配がない。
やがて吉岡さんが小刀を置いて、顎で隣を示した。縁台の板がきしむ。俺が腰を下ろすと、朝の日が縁台の端まで伸びてきていた。
吉岡さんはしばらく空の馬房のほうを見ていた。
「……奥、見てくか」
言って、縁台から腰を上げた。俺も黙って後ろにつく。母屋の裏手を回ると、細い踏み跡があった。草に半分埋もれて、それでも人が歩いた線だけは消えていない。
奥の放牧地に出た。草は膝のあたりまで伸びて、朝露が長靴の先を濡らした。昨夜、少し雨が降ったらしい。土の色がところどころ濃い。なのに足元に水は溜まっていない。踏んでも、ぐちゃりと沈まない。
(水はけがええ)
宮田の声が、頭の奥でよみがえった。雨上がりの草地を、俺は思わず見下ろしていた。水たまりひとつない。仔が脚を傷めない土地。あの柵の前で爺さんが見ていたのは、やっぱりこれだったのか。
吉岡さんは黙々と歩く。背が丸くて小さいのに、草をかき分ける足取りは妙にしっかりしていた。俺は遅れないように後ろを歩いた。鳥の声がして、風が草の穂を鳴らす。吉岡さんは何も言わない。俺も、何も言わなかった。
やがて吉岡さんが、奥の放牧地の真ん中あたりで足を止めた。
草の穂が風に波打って、朝露が長靴の先で冷たい。俺も隣で立ち止まる。吉岡さんはしばらく黙って、向こうの山の稜線を眺めていた。
「権三郎はな、昔ここを売ってくれって言いに来た」
俺の肩がぴくりと止まる。聞き返した声が、思ったより掠れていた。
「……爺さんが」
吉岡さんは首に巻いた手ぬぐいの端を、指で一度摘んで離した。
「若い頃の話だ。ある晩、一升瓶をぶら下げて母屋まで来てな。縁台でこう、頭を下げた」
その光景が、妙にはっきり浮かんだ。若い爺さんが一升瓶を下げて、ここへ歩いてくる姿。俺の知らない爺さんだ。
「理由を聞いたらな、あいつ、『ここの土は仔の脚を守る』とだけ言った。それっきりだ」
吉岡さんは乾いた笑いを一つこぼした。それから空を見て、言葉を探すように間を置く。
「俺も若かったでな。親父から継いだ土地だって断った」
風が吹いて、草の穂が一斉に頭を垂れる。吉岡さんの背が、朝の光の中でいつもより小さく見えた。
「そしたらあいつ、『なら、金ができたら、いつか』って言ってな。それきり二度と言わんかった」
(二度と言わなかったのか)
柵の前で黙って放牧地を眺めていた爺さんの背中を思い出す。あれはただの散歩じゃなかった。若い日に手に入らなかった土地を、ずっと黙って見ていたんだ。
吉岡さんは、ぽつりと言った。
「あの冬の夜、疝痛の馬に朝まで付き添ってもらって、2人で酒を飲んだ。そこで決めた。どっちかがやめるときは、隣に先に言うってな」
それだけだった。そのあと吉岡さんは、長靴の先で地面を一度だけ軽く蹴った。
「……それで、俺がやめるほうになった」
俺は何も言えなかった。朝露が草の穂から落ちて、足元で小さく光った。
俺はすぐには値段を聞けなかった。頭の中で金を数える。繁殖の2頭にかかる金。来年の春のお産。獣医代。餌代。そして宝塚の賞金。数字が指の先からこぼれていく。
「桜庭さんには、もう値段を言ったんですか」
言い出しかけて一度やめた。それでも口から出た。吉岡さんは草の穂の先を見たまま、短く答える。
「あっちにも、宝塚の後だ」
「……いくらですか」
我ながら声が小さかった。吉岡さんはしばらく黙っていた。
「宝塚が終わってから言う」
「どうしてですか」
吉岡さんはようやく俺のほうを見た。日に焼けた顔の皺が、朝の光の中で深く動く。
「勝ったら高く言いたくなる。負けたら安く言ってやりたくなる。どっちも権三郎の孫にすることでねぇ」
風が吹いて、草の穂がざっと頭を垂れた。吉岡さんはそれを見送るように目を細める。
「勝っても負けても、同じ値段だ」
頭の中で、はじいていた算盤がかちりと音を立てて止まった。宝塚の賞金。勝てば届くかもしれない。その数字を、俺は昨日から手帳の余白で何度も書き直していた。勝つ前提の計算。負けたときの計算。それを全部、この人は先に外してきた。
口が開いたまま、何も出てこなかった。
吉岡さんが、口の端だけで少し笑った。声には出さない。目だけが、俺の顔を見透かすように細くなっていた。
吉岡さんがふと顔を上げて境の柵の向こうへ目をやった。ひなたの放牧地では、シズクとサザナミが並んで草を食んでいる。朝の光の中で、2頭の背中がつやつやと光っていた。
「いい馬、走らせたな」
ぽつりと、それだけ言った。目は2頭に据わったまま、しわの深い横顔がわずかに緩んでいる。
俺は長靴の先で草を一歩踏みしめた。
「宝塚の次の週に、返事をしに来ます」
自分の声が、思ったよりまっすぐ出た。吉岡さんはゆっくりと俺のほうを向く。目が合った。深いしわの奥で、何かを確かめるように細くなる。
「おう」
それだけだった。吉岡さんは踵を返し、母屋のほうへ歩き出す。小柄な背中が、草の上にぽつんと浮かんで見える。
俺はその後ろ姿を、動かずに見送った。母屋の戸が開いて、小さく閉まる。ぱたんと乾いた音が、空っぽの放牧地にやけに長く残った。
◇
昼前、俺は道を回ってひなた牧場へ戻った。放牧地の柵のそばで、奏が2頭の体温を測り終えて帳面をつけている。厩舎の戸口には宮田がいて、桶を洗っている。
俺が近づくと、奏はペンを止めて顔を上げた。
「どうだった」
「値段は、宝塚が終わってから言うって」
奏は少し目を丸くして、それから帳面を閉じた。閉じた手を胸の前でしばらく止めている。
「……そっか。かっこいいね、吉岡さん」
声が少しだけ柔らかかった。俺は何も言えずに頷いて、長靴の先の草を見た。
戸口のほうで、宮田が背中を向けたまま呟いた。
「……あの爺さんらしい」
それだけ言って、宮田は厩舎の中へ戻っていった。
◇
夕方の事務所に、携帯の着信音が低く響いた。画面には美浦の先生の名前。俺は椅子に座ったまま通話ボタンを押す。
「もしもし」
「オーナー、今朝、1週前の追い切りをやりました」
先生の声はいつも通り短い。
「須賀が乗って、しまいまでしっかり動けています」
「ありがとうございます」
時計の数字は言わない。言わない人だ。俺も聞かない。聞かなくても、声の調子で分かる。悪くない仕上がりなのだろう。
「最終追い切りは9日です。そのあと、阪神へ運びます」
「分かりました。よろしくお願いします」
俺が短く返すと電話の向こうで小さな沈黙が落ちた。
「オーナー」
先生の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「何かありましたか。声が違う」
「……隣の話です。でも、宝塚とは関係ありません」
電話の向こうで先生が少し黙った。向こうの厩舎の物音だけが遠く聞こえる。一拍置いて、短い声が返ってきた。
「なら、いい」
それだけだった。余計なことを聞かない人だ。俺は携帯を耳に当てたまま、机の上の手帳を見ていた。
「9日の追い切りのあとに、また電話します」
「お願いします」
通話が切れた。机の上で手帳を開く。蛍光灯の白い光の下、「吉岡さん」の横に昨日から書き直していた賞金の数字を、ボールペンで1本の線を引いて消す。紙が少し凹んだ。残ったのは「6/13 阪神 2200」の丸だけだ。
窓の外では、夕方の放牧地が橙に染まっている。柵の向こうで、シズクとサザナミが並んで草を食んでいた。シズクはアサツユの母だ。あの放牧地で育って、走って転んで、また走った。それを見てきたのは俺だけじゃない。宮田もだ。
朝の吉岡さんの声が、耳の奥に残っていた。
「いい馬、走らせたな」
金のために勝ちたいんじゃない。この牧場で育った馬が、どこまで行けるかを見たい。その先に、たまたま土地がついてくる。ただ、それだけの順番だ。
俺は手帳を閉じて、窓の外の2頭をもう一度だけ見た。
(この牧場で、まだ勝つ)




