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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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行ってこい




 6月9日(水)の朝、飼い付けが終わって、放牧地の柵の外で奏がシズクとサザナミの体温を測っていた。俺は横でその背中を見ていた。


「平熱。2頭とも変わりなし」


 奏は帳面を閉じて、長靴の先で草を軽く踏んだ。


「土曜に発つ」と俺は言った。「阪神まで」


「うん」と奏は頷いた。「私は残る。2頭の担当だから」


「分かってる。無理は言わない」


「宮田さん、行ってきて」


 奏は厩舎の戸口のほうへ声をかけた。桶を洗う手を止めずに、宮田が低く返す。


「……わしが行っても、何もできん」


「見るだけでいいの」


 奏の声はやわらかかった。宮田は春の京都にも行っていない。あの日も、この牧場で桶を洗っていた。


 水の音が、しばらく続いた。杓が桶の縁をこつんと叩く。


「……行く」


 それだけ言って宮田は厩舎へ戻っていった。背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。


 残されたのは俺と奏の2人きりだった。風が草の穂を撫でていく。しばらく、どちらも黙っていた。


「……ほんとは、私も見たかったけどね」


 奏がぽつりと言った。顔は放牧地のほうを向いたままだった。一つ結びの毛先が、風に揺れている。


 俺は何か言いかけて口をつぐんだ。代わりに、と返す言葉を探した。


「……ごめん」


「何で謝るの」奏は振り向いて、くすっと笑った。「陸のせいじゃないでしょ」


 それから、帳面を胸の前で抱えるようにして、少しだけ顎を上げた。


「テレビの前で、いちばん大きい声出すから」


◇


 同じ日の昼すぎ。事務所の窓から、放牧地の緑がやけに濃く見えた。机の上に置いた携帯が低く震えて、画面に美浦の先生の名前が浮かぶ。俺は椅子に座ったまま通話ボタンを押した。


「もしもし」


「オーナー、今朝、最終追い切りをやりました」


 先生の声はいつも通り短い。それでも、どこか少しだけ明るい。


「須賀が乗って、しまいまで手応えが残っていました」


「ありがとうございます」


 俺が短く返すと、先生は一拍置いてから続けた。


「須賀は『もう何も足すものがない』と言っていました」


(もう何も足すものがない、か)


 須賀らしい言葉だな、と思った。あの人は余計なことを言わない。言うなら本当に、何も足さなくていい仕上がりなんだろう。胸の奥が、じわりと熱くなる。


「これから阪神へ運びます。明日、枠が出ます」


「分かりました。土曜に、宮田さんと行きます」


 俺がそう言うと、電話の向こうで小さな沈黙が落ちた。それから先生の声が、ほんの少しだけ明るく変わる。


「宮田さんが。……なら、あの馬も落ち着くでしょう」


 先生はそれだけ言って短く息を吐いた。先代の頃から知っている人だ。宮田とアサツユのことを、何も聞かなくても分かっている。


「よろしくお願いします」


「はい。阪神で待っています」


 通話が切れた。事務所に静けさが戻る。窓の外では、昼の風が伸びた草をざわざわと揺らしていた。


 俺は机の上で手帳を開く。「6/13 阪神 2200」の丸がやけにくっきり見える。その横に、ボールペンで小さく書き足した。


「最終 9日」


 ペン先を紙から離すと、指先がほんの少しだけ熱かった。


◇


 6月10日(木)の14時すぎ、事務所の窓から見える昼の放牧地がやけに白っぽかった。机の上で開いたパソコンの画面を、俺と奏と宮田の3人で覗き込む。


 宝塚記念の枠順が表示されていた。17頭立て。馬名の列を指で追う。


 アサツユは8枠16番。外から2番目。枠の色は桃色だ。画面の端で、その桃色が妙に明るく浮いている。


 宮田が、低く息を吐いた。腕を組んだまま画面を睨んでいる。


「……外か。2200で外を回されたら、そのぶん距離が延びる」


 ぼそりと、心配の塊みたいな声だった。俺は何も言えずに画面の16番をもう一度見た。


「内で包まれたらこの子は出られない」


 奏が横から言い返す。声ははっきりしていた。


「大阪杯で負けたのは外を回ったせいじゃないって、須賀さんも言ってたでしょ」


 宮田は黙らない。腕を組んだまま、画面を睨み続ける。


「言うのは簡単だ」


 その声には、返事を求めていないような重さがあった。厩務員としての腹の底が見えた気がした。


 奏はそれでも引き下がらない。


「外を回っても、出る場所があれば大丈夫。この子、自分で動けるから」


 俺は黙って聞いていた。画面の出走表に、シロガネノミチの名前がない。視線が、そちらへ止まる。


「シロガネは出ないよ」と奏が言った。「父さん、春天のあとは夏まで休ませるって」


 ハヤテノオウは2枠3番。テンカザクラは5枠10番。大阪杯の王者と、玲司の皐月賞馬。2頭とも内めの枠を引いている。外はうちだけがぽつんと離れているような、そんな見え方だった。


 机の端で携帯が震えた。画面を開くと、差出人は須賀。文面は短い。


『外、いいです。前がよく見えます』


 俺はそのまま声に出して読んだ。宮田はしばらく黙っていた。腕を組んだまま、画面の桃色の枠を見ている。それから、低い声で言う。


「……乗る奴がそう言うならそうなんだろ」


 それだけだった。宮田は腕を解いて、窓のほうへ一歩寄った。昼の光が、しわの深い横顔を照らしている。心配は消えていない。でも、預けた相手を信じる顔でもあった。


 奏が俺のほうを見て口元を少しだけ緩めた。何も言わない。ただ、その目が「でしょ」と言っていた。


 俺はパーカーのポケットから手帳を出して開いた。「6/13 阪神 2200」の丸が、いつも通りくっきり見える。その下の余白に、ボールペンで小さく書き足した。


「8枠16番」


◇


 6月11日(金)、出発の前の日の夕方だった。


 俺は境の柵のそばに立ってシズクとサザナミを眺めていた。2頭は今日も変わらず、のんびりと草を食んでいる。この光景をしばらく見られなくなる。たった3日だと分かっていても、妙に名残惜しかった。


 ふと顔を上げると、柵の向こうに人の気配があった。吉岡さんだ。首に手ぬぐいを巻いたまま、馬のいない放牧地にぽつんと立っている。こちらを見ていた。俺は軽く頭を下げた。


「明日か」


 吉岡さんの声は風に乗って柵を越えてきた。低くて、掠れていた。


「はい。宮田さんと」


 俺が答えると、吉岡さんは小さく頷いた。それきり、しばらく黙って向こうの草を見ていた。夕方の光が、伸び放題の草の穂を一本一本金色に染めていく。風が渡るたび、その金色がさらさらと揺れた。


 やがて吉岡さんが、ぽつりと言った。


「権三郎はな、大きいレースの日はラジオ抱えて柵のとこを行ったり来たりしとった」


 俺は思わず、その光景を思い浮かべた。杖もつかずに柵の前をうろうろする爺さんの背中。ラジオを胸に抱えて、落ち着かずに何度も何度も往復する姿。


「座っとれん男でな」


 吉岡さんはそう言って口の端だけで少し笑った。皺の深い顔が、夕日の中でわずかに緩む。俺も、つられて笑ってしまった。


「……爺さんらしいです」


 爺さんはいつもそうだった。じっとしているのが苦手で、待つあいだは必ず体を動かしていた。牧場の仕事も、まさにそういう人だった。俺の知っている爺さんのままだ。こんなところで、その姿がまた一つ増えるとは思わなかった。


 土地の話も、値段の話も、どちらもしなかった。どちらも宝塚のあとだと決まっている。今ここで言葉にしたら、なにかが傾いてしまいそうだった。吉岡さんも、それが分かっている顔だった。


「俺は座って見る」


 吉岡さんは柵の向こうで、静かに言った。


「……テレビで見とる」


 それだけだった。派手な激励も、気の利いた言葉もない。でもその一言で十分だった。この人は、ちゃんと見ていてくれる。爺さんがそうだったように。


 少しの間があった。風が草を撫でる音だけが、あたりに満ちていた。夕日が2人の影を長く伸ばしていく。


 やがて吉岡さんが、短く言った。


「行ってこい」


 背を向けて、母屋のほうへ歩き出す。小柄な背中が、夕暮れの放牧地にぽつんと浮かんで、少しずつ小さくなっていった。


 俺は柵のこちら側から、その後ろ姿に向かって頭を下げた。


「行ってきます」


 声は、思ったよりしっかり出た。吉岡さんは振り返らなかった。その背中が、母屋の戸口に消えた。


◇


 事務所の窓の外がだいぶ青く沈んできた。昼の熱が引いて、風が少しだけ涼しい。俺は棚からボストンバッグを下ろして、中身を確かめ始めた。着替え、洗面道具、手帳。それから机の上に置いてあった万年筆を手に取る。黒い軸が、蛍光灯の下でつやっと光った。握らない。握れば視える。今はまだ、その必要はない。胸ポケットにそっと差し込むと、心臓の上でほんの少しだけ硬い感触がした。これが、俺のお守りだ。


 荷物をまとめ終わって椅子に座ると、机の端で携帯が低く震えた。画面を開く。差出人は玲司だった。


『テンカザクラは、この春でいちばんの出来だ』


 短い文面が、白い画面の上にぽつんと浮かんでいる。続けて、もう1通。


『宝塚で、また会おう。京都でそう言ったね』


 指が止まった。京都。天皇賞(春)のあとの関係者通路。あの日、玲司は俺にそう言った。「宝塚で、また会おう」。俺は返事をしなかった。できなかった。勝った直後で、頭の中がまだ京都の直線を走っていた。


 今も、返す言葉は見つからない。いや、見つける必要もない。あの続きを、阪神でやるだけだ。俺は指を動かして、短く打った。


『宝塚で』


 送信する。すぐに既読がついた。向こうは何も返してこない。それでいい。これが、俺の返事だ。


 それから少しして、もう一度携帯が震えた。今度は美浦の先生からだ。


『阪神の馬房で、カイバは全部食べています。落ち着いています』

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