大外の16番
6月13日(日)昼すぎ、晴れ。
阪神競馬場のパドックへ向かう通路は、押しくらまんじゅうみたいな混雑だった。人の頭の向こうに、スタンドの屋根が白く光っている。俺は売店の前で競馬新聞を買った。見出しがでかでかと踊っている。
「王者か、二冠馬か」「三度目の決着」。
春の古馬GⅠを締める宝塚記念。17頭立てのファン投票1位は、うちのアサツユだ。新聞の馬柱を指で追うと、16番の横に◎の印が並んでいた。
隣の宮田は、人の多さに黙ったままだった。帽子を脱いで、かぶり直す。それだけを何度も繰り返している。慣れない場所にいるのが分かった。口元は真一文字に結ばれたまま、目だけが落ち着きなくパドックのほうを向いている。
「……わしは、ここで見とるだけだ」
ぼそりと言った。声が人の波に飲まれて、やけに小さく聞こえる。
「見てるだけでいいって、奏が」
俺が返すと、宮田はもう一度帽子のかぶりを直して、低く言った。
「……知っとる」
その声には、行くと言ったからには最後まで見る、というような重さがあった。
ポケットの中で携帯が震えた。画面を開くと、奏からのメッセージだ。
『テレビの前、ついた』
短い文面のあとに、小さな馬の絵文字がひとつ付いていた。日高の事務所で、テレビの前に陣取っている姿が目に浮かぶ。俺は「こっちもこれからパドック」とだけ打って、画面を閉じた。
「行くか」
そう言いかけたときには、もう宮田はパドックのほうへ歩き出していた。人の波を割るように、無骨な背中が少しずつ遠ざかっていく。その後ろ姿が、牧場で桶を洗っているときの背中と同じに見えた。
俺は新聞を丸めて、その背中を追った。
◇
パドックの輪が、ゆっくりと回り始めた。
発走まで、あと40分。俺は柵の内側に立っていた。すぐ外に宮田がいる。帽子を手で押さえたまま、じっと馬のほうを見ている。
電光掲示板が数字を映し出していた。単勝、1番人気ハヤテノオウ2.5倍。2番人気アサツユ2.9倍。3番人気テンカザクラ5.4倍。その下に馬体重が並ぶ。アサツユ、天皇賞(春)から+2kg。
担当さんに引かれて、アサツユが輪の奥から出てきた。黒鹿毛の脚が長く、歩くたびに首を小さく振る。耳が両方とも前を向いている。
柵の外で、宮田が小さく言った。
「……いい顔しとる」
それだけだった。けれど、その一言で肩の力がすっと抜けた。
観客の声が、ざわざわと波のように押し寄せる。
「2200ならハヤテだろ」
「有馬で負けてるぞ、ハヤテは」
「二冠馬がどこまでやるかだな」
好き勝手なことを言ってくれる。俺はポケットに手を入れて、万年筆をそっと握った。
視える。
【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A+】【根性:A+】【賢さ:S】――【隠れ適性:中長距離向き】【隠れ適性:良馬場巧者】【隠れ適性:自在】。
8行。天皇賞(春)の夕方に書き換わったまま、動かない。中長距離向きになってから、初めてのレースだ。
この8行を、今日、走らせる。
目を移す。大きな栗毛。額から鼻まで太い流星。ハヤテノオウだ。
【スピード:S】の1行だけが、ぎらりと強く光って見えた。有馬記念の日と同じ。いや、あの日より濃い。
これが、古馬の王者か。
「阪神で」
隣に、いつの間にか玲司が立っていた。柵の内側。白いシャツが、日差しをまっすぐ受けている。
俺は顔を上げた。
「阪神で」
それだけで通じた。京都で交わさなかった続きを、今ここで2人で閉じた。玲司は口元だけで笑って、それきり何も言わなかった。
止まれの合図が鳴る。パドックの空気が、ふっと固くなった。
須賀が軽く鐙を踏んで騎乗する。白に青の二本輪の勝負服が、輪の中でひときわ白く浮いた。
「オーナー」
鞍の上から、須賀はまっすぐ前を見たまま言った。
「外から、行きます」
「頼みます」
短く返すのが、精一杯だった。
担当さんが馬の頭のそばへ下がる。アサツユが首を一度振って、蹄の音を変えた。宮田が帽子のつばを掴む。俺は万年筆をポケットの奥へ戻した。
黒い馬体が、本馬場への通路の暗がりへすっと入っていった。
行け。あの8行で、どこまで行けるか見せてくれ。
最後に残ったのは、蹄の音の残響と宮田の小さな吐息だった。
◇
スタンド最前列の手すりは日差しを吸ってじりじり熱かった。宮田はその手すりを握ったまま、微動だにしない。帽子のつばの下で、目だけがゲートのほうを睨んでいる。
ファンファーレが鳴った。金管の音が腹の底にまで響いてくる。スタンドの歓声が、それに被さるように大きくなった。
奇数番から馬がゲートに入っていく。栗毛のハヤテノオウが、するりと収まった。テンカザクラも、拍子抜けするほどあっさり入る。そして16番。黒鹿毛の馬体が、最後のほうでゲートの枠に吸い込まれていった。
入れ。落ち着け。お前なら大丈夫だ。
隣で宮田が、手すりを握り直す。ごりと音がしそうなくらい強く。
「……頼むぞ」
声にならない声だった。
ゲートが、開いた。
《スタートしました!》
実況の声がスタンドの上を走る。どっと歓声が湧いた。俺は目を凝らす。16番の桃色の帽子が、外のほうでぴたりと揃って出ていく。
五分。悪くない。いや、いい。
アサツユの黒い馬体がすっと流れに乗った。無理に押していない。須賀の手が静かに見える。首が上がっていない。耳だけが、一度、歓声のほうへ動いてすぐ戻った。
《外からアサツユは中団の外。内のハヤテノオウは3番手、テンカザクラ2番手に構えます》
馬群がスタンド前を通り抜ける。地鳴りみたいな歓声が、コンクリートを揺らす。白と青の勝負服が、桃色の帽子の上でぶれない。
宮田が、ぼそりと言った。
「……耳、動いたな」
俺は答えなかった。答えなくても分かっていた。あれは音を確かめただけだ。気負ってもいない。怯えてもいない。
馬群はそのまま、ゆるやかな弧を描いて1コーナーへ流れ込んでいく。外を回るぶん、アサツユの走る距離は確実に長い。それでも須賀は内へ寄せない。外のまま。前がよく見える場所を、自分で選んで走っている。
《1コーナーを回って、まずはハヤテノオウ内の3番手。外からアサツユは8番手のまま》
「回らされるな」
宮田が、手すりを握ったまま低く言った。それは心配の声じゃなかった。腹を括った職人の、確認するような声だった。
俺も手すりに手を置く。熱い。馬群がコーナーに吸い込まれていく。16番の黒い馬体が、外の景色の中にすっと消えるように見えた。
ここからだ。
心臓が、うるさい。それでも頭は妙に静かだった。あの8行が、今日の芝の上を走っている。
2コーナーを回って、馬群は向正面へ入った。
《1000メートルの通過は1分0秒3。ハヤテノオウは3番手の内、テンカザクラは2番手》
宮田は手すりから手を離さない。俺もだ。向正面の芝は日差しを受けて、ところどころ白く乾いて見える。17頭の蹄がそこを叩いて、低い地響きが遅れて届いた。
遅くない。でも速くもない。
ちょうどいい。誰も無理をしていない。だからこそ、仕掛けどころで差が出る。俺はポケットの万年筆に指を触れたまま、桃色の帽子だけを見ていた。
3コーナーの手前。桃色の帽子が、外へ動いた。
「来た」
思わず声が出た。外から、ぐっと上がり始めた。大阪杯で見たのと同じ動き。あのときは届かなかった。今日はどうだ。
《さあ3コーナー手前、アサツユが外から上がっていきます。8番手から進出開始》
観客の声が、ざわっと割れた。
「早いぞ」
「また外回しかよ」
「そこで動くか、須賀」
好き勝手に言う。俺は歯を食いしばった。須賀さん、それでいい。あの人はいつも前が見える場所を選ぶ。
その瞬間、内で栗毛が動いた。ハヤテノオウだ。首の差しが長い、あの大きな栗毛が3コーナーで2番手へ上がる。テンカザクラの外に並びかけた。白髪の調教師が送り出した古馬の王者が、自分の仕事を始めた。
速い。あれが王者の進出か。
アサツユは3コーナーから4コーナーの外を回る。5番手。4番手。1頭ずつ、前に並ぶ背中が近づいていく。外々を回らされる。距離は確実に損している。それでも黒い馬体は止まらない。須賀はまだ追っていない。
《4コーナー先頭はハヤテノオウとテンカザクラが並んで。外からアサツユ4番手、先頭から2馬身半》
隣で、宮田の喉が鳴った。
「……行け」
あんな声は、初めて聞いた。あの無口な男が、絞り出すように言った。俺は手すりを握り直す。指の腹が熱い。桃色の帽子が、外の景色の中で揺れている。
須賀の背中は、まだ静かだった。




