外の景色
4コーナーの出口。白と青の勝負服が、外から手綱を動かした。須賀の背中が低く沈む。桃色の帽子が、一気に前の2頭へ迫っていく。
直線。阪神の内回りは息をする間もないほど短い。先頭はハヤテノオウ。内でテンカザクラが粘っている。2頭の外から、黒い馬体が並びかけた。
《外から16番アサツユ! さあ、ここで3頭横一線!》
歓声が、スタンドを揺らした。耳が痛い。手すりを握る指に、力が入る。
心臓が、うるさい。
アサツユの脚は止まらない。外を回ってきたぶん、確実に距離は長い。それでも黒い馬体は沈み込むように伸びていた。
坂だ。阪神のゴール前の急な坂。馬群の脚が、そこで一瞬重くなる。ハヤテノオウが、その坂で伸び返した。首の差しが長い、あの大きな栗毛がもう一度だけ前へ出る。
《坂で、ハヤテノオウ! 王者が抜け返す!》
「くそ……」
声が出た。届かない。あと少しなのに。桃色の帽子が、王者の首の後ろに沈みかける。有馬記念の景色が、脳裏をよぎる。あのときはアタマ差、届いた。今日はどうだ。
隣の宮田は、もう声を出していなかった。手すりを握ったまま、口を真一文字に結んでいる。その目が、まっすぐに馬を見ている。
残り50メートル。
アサツユの首が、もう一度、前へ出た。
「行け!」
俺の声だった。喉が焼けるようだった。黒い馬体が、栗毛に並ぶ。首が出る。肩が、出る。須賀の勝負服が白くぶれた。
ハヤテノオウと並んだまま、2頭がゴール板を駆け抜けた。
ゴールの瞬間、スタンドが割れた。地鳴りのようなどよめきが、頭の上から降ってくる。俺は手すりを握ったまま、目を凝らしていた。桃色の帽子と栗毛の流星が、同じ線の上で潰れて見える。どちらが前か、分からない。息が止まっていたことにも気づかないほど、視界が白く飛んでいた。
隣で、長い息が出た。宮田が、ゆっくりと肺の中身を全部吐き出すように息を吐いた。手すりを握っていた指が、そこで初めて緩む。
掲示板が、光った。
1着 16。2着 3。3着 10。
《宝塚記念を制したのは、アサツユ! 大外16番から王者をクビ差捕らえました!》
実況の声が、もう一度スタンドを揺らす。俺は数字を、何度も読み返した。16。16。16。喉の奥が、ひどく渇いていた。
宮田は何も言わなかった。帽子のつばを掴んだまま、ふいと顔を背ける。その肩が一度だけ小さく震えた。鼻をすする、かすかな音がした。俺はそちらを見ないで、まっすぐ前を向いていた。
ポケットの中で、携帯が震えた。
画面を開く。差出人は奏。文面は、たった一言だった。
『見た』
検量室の前。担当さんに引かれて、アサツユが戻ってきた。黒鹿毛の馬体は汗でぐっしょりと光り、首から肩にかけて白い泡が浮いている。それでも脚取りはしっかりしていて、息の戻りが目に見えて早い。担当さんが首筋を叩きながら「よう走った」と何度も言っている。馬は一度だけ耳を後ろへ倒し、それから小さく首を振った。
検量を終えた須賀が、鞍を小脇に抱えてこっちへ来た。勝負服の白が汗で透けている。前髪が額に張り付いていた。それでも背筋はまっすぐで、足取りに疲れの色はない。
「外、よく見えました」
開口一番、それだった。俺は息を吐くように返した。
「そうか」
須賀は少し間を置いてから、率直に言った。
「でも、2200は、ぎりぎりでした。最後の坂でもう一つ先があれば、楽でした」
勝った直後の騎手の言葉とは思えなかった。事実をそのまま口にする人だ。それでいて、悔しさや言い訳の色はない。ただ距離のことを言っている。
俺はもう一度、短く返した。
「……そうか」
須賀が、そこで初めて小さく笑った。目だけがすっと細くなって、張り付いた前髪の下で表情がほどける。それきり何も言わず、検量室のほうへ背を向けて歩いていった。
残ったのは、汗の匂いと、馬の荒い鼻息の音だけだった。
検量室の前は汗と土と、かすかな消毒液の匂いが混ざっていた。俺はポケットの中で、祖父の万年筆を握る。汗で光るアサツユの黒鹿毛が、午後の光を吸い込んでいた。
視える。
【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A+】【根性:A+】【賢さ:S】――【隠れ適性:中長距離向き】【隠れ適性:良馬場巧者】【隠れ適性:自在】。
8行。全部、同じ濃さで並んでいる。何も変わっていない。書き換わる気配もない。【中長距離向き】の行も、ほかの行と同じ濃さで揺れていない。
須賀の「ぎりぎりでした」という声が、まだ耳の奥に残っている。あの率直な男は、勝った直後にそう言った。2200。阪神の内回り。外を回って、坂を越えてクビ差。あの男が「ぎりぎり」と言うなら、本当にぎりぎりなんだろう。2200は、こいつにとっていちばん短い端なのかもしれない。いや、そう考えるのはまだ早い。ただ、そうかもしれないという予感だけが胸の奥で小さく燻っている。
万年筆から手を離す。黒い軸が、指の腹に冷たく残った。
白いシャツにネクタイの先生が、静かに近づいてきた。手にしたタオルで額を押さえながら、アサツユの脚元へ一度だけ目をやって、それから俺を見た。汗を拭く手つきはゆっくりで、声はいつも通り短い。
「オーナー。おめでとうございます。……秋は、少し長いところを考えましょう」
ウイナーズサークルの地面が、午後の日差しを反射して目に痛い。真ん中にアサツユが立っていた。汗で黒鹿毛が濡れ、首筋の泡が乾いて白く縁取られている。それでも顔つきはいつもと変わらない。耳を2本立てて、スタンドのざわめきのほうへ向けていた。俺はその右に立つ。先生が左で、白いシャツの袖を折っている。須賀は鞍の跡がくっきり残った勝負服のまま、馬の肩のあたりに控えた。担当さんが無口を握り、背筋を伸ばしている。
宮田だけが、輪から半歩外れた場所で立ち尽くしていた。帽子を脱がず、つばを深く被ったまままるで自分は写真に収まる資格がないとでも言うように、うつむいている。
俺は2歩寄って、その無骨な腕を取った。
「宮田さん、こっちです」
「わしは、いい」
「この馬を見てきたのは、宮田さんです」
引いた。抵抗は弱かった。半歩だけこちらへ踏み出して、それからようやく隣へ並ぶ。帽子は取らない。写真が撮られる間、宮田は微動だにしなかった。ただ、手すりを握っていたときと同じ目で、まっすぐ前を見ていた。
関係者通路へ出ると、人の流れが途切れて急に静かになった。壁にもたれて、仕立ての良いジャケットの男が立っている。桜庭玲司だった。こちらを見ると、壁から背中を離してゆっくり2歩近づいてくる。
「おめでとう。……隣の件は、来週だね」
声は抑えられていた。目は笑っていなかった。テンカザクラは3着。玲司は一度だけアサツユに視線をやって、それから俺の目を見た。
俺は短く息を吐いてから答えた。
「来週」
◇
大阪の宿の部屋は日が落ちてもなお熱を持っていた。窓を開けても、入ってくるのは涼しい夜風ではなく、街の匂いを含んだ生ぬるい空気だった。隣の部屋からは、もう物音ひとつしない。宮田は風呂に入ると、そのまま倒れるように寝てしまったらしい。無理もなかった。あの無口な男が、スタンドの最前列であんな声を出すところを俺は初めて見た。
俺は窓のそばの椅子に腰かけて、携帯の画面を開いていた。口取りの写真が届いている。並んだ面々の中で、宮田だけが帽子を被ったまま半歩後ろにいた。俺が引っ張って並ばせたのに、写真に写ったその姿はやはり輪の外にいた。だが、その目はまっすぐに前を向いていた。手すりを握っていたときと同じ目だった。写真を閉じる。窓の外では、大阪の夜景が低く広がっていた。
携帯が鳴った。画面に浮かんだ名前を見て、俺は少し驚いた。『吉岡さん』。隣の牧場の主から、電話がかかってきたことなどこれまで一度もなかった。用があるときは、境の柵越しに声をかける。それで済んでいた。俺は椅子から立ち上がり、通話ボタンを押した。
「もしもし」
俺がそう言うと、しばらく沈黙があった。風の音もしない。吉岡さんは、何か言葉を探しているようだった。やがて、低く掠れた声が電話の奥から聞こえた。
「……見た」
それだけだった。だがその一言に、あの夕暮れの放牧地で聞いた「行ってこい」と同じ重さがあった。
「ありがとうございます」
俺が短く返すとまた沈黙が落ちた。長い沈黙だった。テレビの前で、吉岡さんがどんな顔をして座っていたのか、想像しようとした。皺の深い顔を、きっと動かさずに。
そして、声がした。
「値段、決めたぞ」




