権三郎の値段
電話の向こうで吉岡さんがひとつ息を吐くのが聞こえた。風呂上がりの湯気と街の匂いを含んだ生ぬるい空気が、窓のそばでよどんでいる。
「……1,500万だ」
数字は低く、掠れていた。俺は何も言えなかった。額の金額が、頭のなかでゆっくりと輪郭を持つ。隣の放牧地。奥の斜面のない平らな牧草地。あの立地と水はけで、1,500万はあまりに安い。
「桜庭は、その倍を言ってきた」
吉岡さんが短く足した。俺は窓の外を見た。大阪の夜景が低く広がっている。日高の空気よりずっと重い光の粒が、どこまでも続いていた。
「安すぎます」
やっと言った声は、自分でも情けなくなるほど小さかった。
「それは、いくらなんでも安すぎます。吉岡さんの土地です。情けで値段を決めるようなことは」
「情けじゃねぇ」
吉岡さんの声が、電話越しにぴしゃりと遮った。怒っているのではなかった。むしろ、その声には古い引き出しを開けるときのような静けさがあった。
「権三郎が一升瓶さげて来た晩に、俺が断った値段だ」
俺は黙った。窓硝子に自分の顔が薄く映っている。だらしない寝癖の男が、電話を耳に当てて立ち尽くしていた。
「あの晩、親父から継いだ土地だって断ったあとで、俺は腹の中で値段を付けた。いくらなら売るか、ってな。1,500万だ。口には出さなかった。権三郎は持ってなかったべし、ひなたもあの頃は馬を2頭飼うのがやっとだった。あいつは、金ができたら、いつかって言って、帰った」
吉岡さんの声が、そこで一度だけ揺れた。笑ったのか、咳をしたのかは分からない。
「勝っても負けても、同じ値段だ。あの晩から変わってねぇ」
窓の外で、遠くの道路を車が流れていく。赤い尾灯が、闇の中をゆっくりと右へ曲がっていった。
俺は目を閉じる。見えるのは大阪の夜景ではなく、日高の夕暮れだった。背の丸い祖父が、一升瓶を提げて隣の牧場の勝手口に立っている。吉岡さんが首に手ぬぐいを掛けたまま、腕を組んで断る。金ができたら、いつか。祖父の声が、風の音と一緒に耳の奥で響いた。
その「いつか」が、今ここにある。
「……帰ったら、行きます」
俺はようやくそう言った。それ以上は、電話では言えなかった。言ってはいけない気がした。
「おう」
吉岡さんの返事は、それだけだった。短い受話音が、耳に残る。俺はしばらく携帯を握ったまま、窓の外の夜景を見ていた。夜風は生ぬるく、ちっとも涼しくはなかった。
隣の部屋からは、物音ひとつしない。宮田は眠っている。あの男が目を覚ましたら、まずこのことを言わなければならない。いや、その前だ。奏に。それから牧場に帰って、自分の目で土地を見て、それから吉岡さんの家へ行く。
1,500万。あの晩から変わっていない値段。
俺は携帯を机の上に置いて、椅子の背にもたれた。天井の薄い染みが、オレンジ色の照明に照らされて滲んで見えた。胸の奥で、じっと熱いものが燻っている。借金でも焦りでもない。ずっと昔に祖父が置いてきた約束が、今この部屋まで転がり込んできた重さだった。
◇
6月14日、月曜の夕方。新千歳の駐車場に置いてきた軽トラックで日高道を走り、牧場の砂利道に入ったとき、日はもう西の林の上にあった。助手席の宮田の肩が、夕方の光を背負って黒く見える。俺はハンドルを握ったまま、見慣れた厩舎の屋根を眺めていた。2日ぶりの日高は、大阪よりずっと空が広い。
事務所の前に、奏が立っていた。長靴のまま手ぬぐいを首に掛けている。軽トラックが止まるのを待たずに駆け寄ってきて、窓を開けるなり言った。
「おかえり。宝塚、見たよ。……値段、聞いた?」
早い。挨拶もそこそこだ。俺はエンジンを切って、ドアを開けた。
「聞いた」
「いくら」
「1,500万」
奏の目が、まあるくなった。口が開いてすぐに閉じる。それからまくし立てるように言った。
「1,500万。桜庭さんのとこ、もっと出すって話じゃなかった? どういうこと。あの土で1,500万はないよ。吉岡さん、正気?」
「正気だ」
俺は助手席から降りた宮田のほうを一瞥した。宮田は黙って鞄を提げたまま、事務所の戸口に立っている。帽子はまだ被っていなかった。宮田には、帰りの飛行機で話してあった。俺は奏のほうへ向き直った。
「桜庭さんは倍だって。……爺さんの値段なんだと」
奏は黙った。風が厩舎のほうから吹いてきて、彼女の前髪を揺らした。目が何か遠いものを見ているようだった。
「……そういうこと」
小さく呟いて、それからまた俺を見た。口を開きかけて、やめた。何か言いたいのを飲み込んだ顔だった。たぶん、今のひなたなら出せるとか、そういうことだ。俺もそれは分かっている。分かっているが、口には出さない。
宮田が、そこで初めて口を開いた。
「……権三郎の値段か」
それだけだった。俺のほうも見ず、奏のほうも見ず、鞄を提げたまま厩舎のほうへ歩いていく。無骨な背中が夕方の光の中で小さくなっていく。
俺は事務所の戸口を離れて、境の柵のほうへ歩いた。奏が後ろで何か言ったが、聞こえなかった。夕暮れの放牧地は、静かに光を吸っていた。柵の向こうは、もう吉岡さんの土地じゃなくなるのかもしれない。まだ分からない。分からないが、その境の柵の向こうを俺はしばらく見ていた。
◇
6月15日、火曜の朝。朝の光が、吉岡牧場の屋根を白く照らしていた。道を回って勝手口のほうへ行くと、吉岡さんが縁台に腰を下ろして長靴の泥を落としていた。小柄な背中が丸く、首にはいつもの手ぬぐいが掛かっている。俺が近づくと、顔を上げないまま「おう」と言った。
「来たか」
俺は縁台の横に立った。吉岡さんは長靴の底を縁台の脚にこつこつと打ちつけ、乾いた泥を落としている。ぱらぱらと土が草の上に散った。
「奥、見せてもらっていいですか」
俺が言うと、吉岡さんは黙って立ち上がった。長靴を履き直し、手ぬぐいを首に掛け直す。それから、あごで奥の放牧地のほうを示した。
2人で歩いた。踏み分けた草の匂いが朝の空気に混じる。境の柵が右手にずっと続いている。向こう側に、うちの放牧地が見えた。シズクとサザナミの姿はまだ出ていない。朝の放牧には、もう少し早い。
奥の放牧地は、思っていたより広かった。斜面のない平らな牧草地が、林の手前までまっすぐ伸びている。草は濃く、足元はしっとりと湿っていた。昨日の夕方に軽く雨が降ったらしい。それでも、くぼんだ場所に水は溜まっていない。俺はしゃがみ込んで、長靴の先で土を押した。弾力がある。水はけのいい、いい土だ。これなら春先でも馬を出せる。
しゃがんだまま俺は黙っていた。頭の中で通帳の数字がゆっくりと並ぶ。宝塚の賞金が入れば、足りる。それは分かっている。迷っているのは金じゃない。値段だ。1,500万。桜庭の出す額の半分。立ち上がって、俺は吉岡さんに向き直った。
「本当に、その値段でいいんですか。桜庭さんの半分です」
吉岡さんは長靴の先で土を2度叩いた。顔を上げないまま、低く言う。
「何べんも言わせるな」
それから、ようやくこちらを見た。皺の奥の目が、朝の光をまっすぐに受けて細くなる。
「権三郎の孫に倍で売ったら、あいつに顔向けできねぇべ」
風が牧草地を渡って草の匂いを運んできた。俺は黙ってその目を見返した。
「買います」
俺は、まっすぐ言った。
吉岡さんは、何も言わなかった。しばらく風だけが草を揺らしていた。それから、ゆっくりと首の手ぬぐいを外し、顔を拭く。皺の深い顔が朝の光にさらされた。目は細められていて、表情は読めない。
「……おう」
たった一言だった。低く、掠れていて、けれどその声に昔の約束がようやく果たされたという安堵のようなものが混じっている気がした。
吉岡さんは手ぬぐいを畳んで首に掛け直し、それから、柵のほうを向いたまま言った。
「ひとつだけ、条件だ」
俺は黙って続きを待った。
「境の柵は、外すな」
理由は言わなかった。俺も訊かなかった。
「外しません」
俺が言うと、吉岡さんは小さくうなずいた。それきり、もう何も言わなかった。朝の光が、2人の間の草を静かに照らしていた。
朝の光を背に砂利道を踏んで戻る。長靴の底が小石を噛む音だけが、やけに大きく耳に残る。吉岡さんの家が、後ろで静かになる。買うと言った。境の柵は外さない、とも言った。それが今、腹の底に重くて熱い塊になって座っている。
ポケットの中で、携帯が短く震えた。
足を止めて画面を開く。差出人は桜庭玲司だった。たった1行だけが、白い背景に黒く浮いている。
『会長が、君に会いたいそうだ。土曜に、そちらへ行くと言っている』




