会長の土曜日
6月19日、土曜の朝。空は高く風はまだ冷たかった。事務所の前の砂利道に、黒い車がゆっくりと入ってくる。運転席には玲司。車は放牧地からいちばん遠い場所で止まるかと思われたが、後部座席の窓がわずかに開き低い声が漏れた。
「ここでいい」
車は事務所のすぐ前で停まった。玲司が先に降り、後ろのドアを開ける。降りてきた男は、70前後。白髪をきっちりと後ろへなでつけ、背広は紺。皺の深い顔に表情はほとんどない。背筋がまっすぐ伸びていて、砂利の上に立っただけであたりの空気が数度下がったようだった。
俺は事務所の戸口から歩み出た。会長は俺の前に立つと、顎をわずかに引いて言った。
「桜庭だ」
それだけだった。宝塚の「お」の字もない。名乗りだけを置いて、視線はもう放牧地のほうへ向かっている。俺は黙って頭を下げた。
「日向です」
会長はうなずきもしない。玲司は無言で父の半歩後ろに控えた。
厩舎のほうから宮田が小走りに来るのが見えた。帽子を手に取り、深く頭を下げたまま声を出さない。その背中が、いつもより小さく見えた。会長は宮田を一瞥しただけで、何も言わなかった。
奏は事務所の陰に立っていた。こちらへは来ない。腕を組むでもなく、ただ背筋を伸ばして会長の姿を見ている。風が、彼女の一つ結びの先を揺らした。
奏が半歩、俺の横に寄ってきた。肩越しに会長の背広姿を一瞥して、はきはきした声を潜める。
「宝塚のあと、火曜に戻して正解だったね」
「正解だ」
俺は飄々と返した。火曜の朝、宮田が馬運車に付き添ってアサツユをこの放牧地へ戻してきた。
会長は砂利道に立ったまま、もう奥の放牧地を見ている。あの黒鹿毛が、柵の向こうで草を食んでいる。
会長はゆっくりと放牧地のほうへ歩き出した。俺は半歩遅れてついていく。砂利が靴底で鳴った。玲司が、黙ってその後ろを歩く。
柵の前で、会長は立ち止まった。俺は半歩後ろで足を止める。朝の光が放牧地を白く照らし、アサツユは柵の内側で草を食んでいた。黒鹿毛が光を吸って、背中に一条の艶を走らせている。
会長は黙っていた。腕を組むでもなく、背広のポケットに手を入れるでもなく、ただ柵越しに馬を見ている。1分が、2分が過ぎた。風が草を渡る音だけが聞こえていた。玲司は父の半歩後ろで、こちらと同じように黙っていた。
「……宝塚の3着は、当然ではなかった」
会長が、低く言った。俺はその横顔を見た。皺の深い頬が、わずかに動いた。テンカザクラのことだ。皐月賞を勝ち、ダービーでハナ差に泣きその後に続くレースでアサツユの背中を追い続けた馬。あの坂で、ハヤテノオウとアサツユの2頭に先を越された。会長はそれを、当然ではないと言った。
「いくらなら売る」
会長の声は、柵のほうを向いたままだった。俺は一呼吸置いてから答えた。
「売りません」
短く、はっきりと。迷いのない声が出た。会長はゆっくりとこちらを向いた。皺の奥の目が、俺をまっすぐに見据えている。怒っているのでも、見下しているのでもない。ただ、値踏みするような静かな目だった。
「……だろうな」
会長は、それだけ言った。それからまた柵のほうへ向き直る。
アサツユが、顔を上げた。こちらの気配に気づいたのか、草を食むのをやめてゆっくりと柵のほうへ歩いてくる。脚が長く、歩くたびに黒い体がしなやかに揺れた。首を伸ばし、柵の上から会長のほうへ鼻先を寄せてくる。会長の白髪の横で黒い鼻先がひくりと動いた。
会長は、手を出さなかった。伸ばしかけた右手を、背広の脇に戻す。アサツユの鼻先は、空を掻いたまま止まった。馬はしばらく会長を見ていたが、やがて首を下ろし静かに草のほうへ戻っていった。
会長は放牧地の柵から離れた。ゆっくりとした足取りで、砂利を踏んで吉岡牧場との境のほうへ歩いていく。俺は半歩後ろをついていく。玲司は事務所の前で立ち止まったまま、こちらへは来なかった。
境の柵の前で、会長は足を止めた。俺も止まる。柵は古い。ところどころ塗装が剥がれ、鉄が錆びて赤茶けている。それでも支柱はまっすぐに立っていて、横木は1本も欠けていない。向こう側に、吉岡さんの奥の放牧地が広がっていた。平らな草地が林の手前まで伸びている。朝の光が草の上を白く滑っていく。
会長はしばらく黙ってその向こうを見ていた。背広の肩が、風もないのにわずかに上下した。
「倍を出して断られたのは、初めてだ」
会長の言葉を頭の中でゆっくりと転がす。倍を出して断られた、か。吉岡さんの土地のことだ。そりゃそうだ。こっちは半額で買うって言った男だ。値段じゃねえんだよ、と心の中でだけ呟く。飄々とした声が、喉の奥で形になる前に消えた。
「吉岡さんは、売る相手を選ぶ人なんで」
俺は短く、それだけを返した。会長は鼻で小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのかどちらともつかない音だった。皺の深い頬が、わずかに動く。風が境の柵の向こうから草の匂いを運んできた。会長はただ錆びた柵の向こうをもう一度だけ見た。
会長は柵の向こうを見たまま右手をわずかに上げた。柵の横木に触れるか触れないかのところで、その手は止まる。皺の深い指が、朝の光の中で硬く見えた。
「お前の爺さんも、ここに立っていた」
俺は会長の横顔を見た。皺の奥の目が、遠いものを見ている。
「何かを握って、ずっと馬を見ていた」
風が草を渡った。柵の向こうの放牧地を、光が静かに流れていく。会長はそれ以上何も言わなかった。俺も訊かなかった。質問すれば、何かが壊れる気がした。
会長はゆっくりと手を下ろした。それから背筋を伸ばし、柵に背を向ける。
「帰るぞ、玲司」
事務所の前で玲司が後部座席のドアを開けた。会長は車のほうへ2歩歩いて、それから足を止めた。振り返らない。白髪をなでつけた後頭部だけが、朝の光を受けている。
「テンカザクラは、秋にフランスへ行く」
声は砂利の上に低く落ちた。
「凱旋門賞だ。玲司が決めた」
玲司がドアの取っ手を握ったまま、はっきりと父の横顔を見た。口が一度だけ開きかけて、閉じる。それからゆっくりとカフスの袖口を直した。その指の動きが、妙に丁寧だった。
俺はその横顔を見ていた。自分の決めたことを、父が人前で「玲司が決めた」と言った。それだけのことだ。だが、それがこの男にとって何なのか。俺には分からない。分からないが、見てはいけないものを見た気がした。
宮田が、黙って帽子をかぶり直した。つばを両手でつまみ、深く。その仕草がさっきまでより少しだけゆっくりだった。
柵の向こうでアサツユが顔を上げた。草を食むのをやめて、耳をこちらへ向ける。黒い鼻先が、朝の空気をふるりと震わせた。
会長が、車のドアの前で振り返った。皺の奥の目が、まっすぐに俺を捉える。
「……お前の馬も、来るか」




