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「……馬と、相談します」
「そうか」
会長はそれだけを言って後部座席へ身を沈めた。ドアが静かに閉まる。玲司が運転席に回る前、俺を一度だけ振り返った。口元に笑みの形はない。だが、その目は何かを測るようにほんの一瞬だけ俺の顔の上で止まった。それから黙って運転席へ乗り込む。
黒い車は、砂利をひとつも跳ねさせずにゆっくりと動き出した。事務所の前を離れ、牧場の入口へ続く道を朝の光を背負って遠ざかっていく。テールランプが林の向こうに消えるまで、俺はその場に立っていた。
風が、放牧地のほうから吹いてくる。冷たい草の匂いがした。奏が、俺の隣で小さく息を吐いた。
「……帰ったね」
「ああ」
宮田は、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと厩舎のほうへ歩いていく。砂利を踏む足音が、いつもより少しだけ重く聞こえた。
俺は、開いたままの事務所の戸口を見た。机の上に、出しっぱなしの書類が風で端を揺らしている。
◇
昼を過ぎた事務所で、俺は通帳を閉じて、冷めた茶をひと口やった。奏は向かいの椅子に腰かけ、スマホを顔の近くに持ってきて、画面を指でなぞっている。調べものが早い。ああいうところは昔から変わらない。
「凱旋門賞。10月の最初の日曜。パリロンシャン競馬場、芝2400メートル。今年は10月3日だって」
読み上げる声が、はきはきと事務所に落ちる。それから顔を上げた。
「2400ならダービーと同じだね。距離は問題ないでしょ。アサツユ、あの坂でハナ差だけど勝ってるんだし」
「でもさ」と奏が続けた。スマホを片手に、指が画面を滑る。「パリロンシャン、10月は雨が多いんだって。芝が深くて柔らかい。日本の芝よりずっと重いよ」
「ああ」
「右回りで、坂があって、直線が長い。それはいいの。問題は馬場。アサツユ、重い馬場、走ったことないよ。それに飛行機。輸送は長いし、向こうで検疫もある。慣らす時間を考えたら、前入りは相当早くなる」
「まあな」
「まあな、じゃないよ」
奏は顔を上げた。目がまっすぐ俺を見ている。獣医の目だ。幼馴染の目でもあった。
「……で、行くの?」
俺はカップを机に置いた。答えは、まだ腹の中で固まっていなかった。数字でも、相談でもない。あの黒鹿毛が海を渡る匂いを嗅ぐかどうか。それだけだ。
「夕方、あいつを見てくる」
奏はしばらく俺を見ていた。それから、小さく息を吐いてスマホを机の上に伏せた。
◇
夕方、放牧地の柵に寄りかかって、俺は胸ポケットから万年筆を取り出した。祖父の遺品。キャップを外すまでもなく、指がそれを握っただけで視える。
【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A+】【根性:A+】【賢さ:S】――【隠れ適性:中長距離向き】【隠れ適性:良馬場巧者】【隠れ適性:自在】
8行。何ひとつ変わっていない。宝塚のあの日から、濃くも薄くもならない。更新の気配もない。ただ、そのまますっと並んでいる。
俺は柵の横木に腕を乗せて、黒い背中を眺めた。アサツユは草を食っている。顔も上げない。尻尾がゆるく振れて、また止まる。あの宝塚の2200は、この馬にとっては短いほうの端だったのかもしれない。少なくとも、あの坂を上り切った脚を見る限りは。なら2400は――端じゃない。真ん中に近いところだ。ダービーで走った距離。あのときは勝った。なら、ここから先の2400も同じ場所にあるはずだ。
風が草を渡っていく。匂いが鼻の奥で冷たくほどけた。俺は万年筆を握ったまま、しばらく黙っていた。馬は食べるのをやめない。こちらを見もしない。呼んでもいないからだ。呼べば来る。この馬はそういう馬だ。だから今は、呼ばない。
「……お前は、どうしたい」
声は、自分でも驚くほど小さかった。草を食む音が、ひとつまたひとつ。返事はない。当たり前だ。俺はただ、柵にもたれたままその音を聞いていた。
◇
6月20日、日曜の夜。事務所の電話が鳴った。
「オーナー。美浦です。遅い時間に失礼します」
先生の声は、いつもどおり丁寧で短かった。白いシャツにネクタイの姿が、受話器の向こうに見えるようだった。
「宝塚は、おめでとうございました。強い勝ち方でした」
「ありがとうございます。……先生、例の件で?」
「はい。凱旋門賞の件です。調べました」
先生は、ひとつ息を置いてから淡々と並べた。
「まず、最初の登録は5月20日ごろで締め切られています。うちは出していません。今から出るとなると、レースの週の水曜に追加登録です。去年の額で12万ユーロ。日本円で2,000万を超えます。これは登録料で、出走すれば出走料も別に要ります」
俺は机の上の手帳を開いた。ボールペンを取って、白い紙に「1,500万」と書く。その下に「2,000万」と書いた。並べてみると、ふたつの数字はたいして変わらなかった。吉岡さんの土地が1,500万。凱旋門賞が2,000万。どちらも、払えない額ではない。払えるから、迷うのだ。腹の底がすとんと冷えた。
「前哨戦ですが」と先生が続けた。「9月にフランスでフォワ賞というのがあります。同じパリロンシャンの2,400。そこで1回使うか、日本から直行するか。どちらもあり得ます。……ただ」
先生は、そこで言葉を切った。電話の向こうで、紙のめくれる音がした。
「正直に申し上げます。私は、自分の厩舎の馬で海外に行ったことがありません。手順は調べました。ですが、経験者に任せるべきかと何度も考えました」
俺は黙って聞いていた。白いシャツの男が、受話器の前で背筋を伸ばしているのが分かる気がした。
「それでも、と申し上げます。馬は行けます。この馬なら、行けます。決めるのはオーナーです」
俺は手帳の数字を見ていた。1,500万と2,000万。吉岡さんの土地は、爺さんの値段だった。凱旋門賞は、爺さんの知らない場所だ。爺さんが一升瓶を提げて歩いた道の先にはない、海の向こう。
ふと、奏の声が耳の奥で甦った。重い馬場、走ったことないよ。そして夕方に見たあの8行。良馬場巧者。あの表示は、変わりもしなければ消えもしなかった。
「……少しだけ、時間をください」
俺は、そう言った。声は、思ったより静かに出た。
「待ちます」
先生は、それだけ言った。短い受話音が、耳に残った。
俺は受話器を置いて、手帳の上にボールペンを転がした。1,500万と2,000万。紙の上で、ふたつの数字が並んでいた。窓の外は、もう暗かった。
しばらく動かなかった。それからスマホを引き寄せ、玲司とのトーク画面を開く。春の文が3つ、上から並んでいた。『春に、また』『阪神で』『見てくれたかな。テンカザクラは、去年の秋の馬じゃない』。どれにも返していない。その下に、俺の『宝塚で』がひとつ。送ったきり、向こうからは何も来なかった。
ダービーで先に頭を取ったのは、こっちだ。ハナ差だった。けれど凱旋門賞を先に決めたのは、あっちだった。今度は追いかける番だ。同じ海の向こうで、あの馬ともう一度。
入力欄を叩く。短く打って画面を見る。
『ロンシャンで』
送信の上で、指が止まった。




