賭けは、もう始まっている
「今日行かないと、間に合わない」
前の晩、奏はエコーの画面を睨んでそう言い切った。
ツキノシズクの卵胞が、ちょうどいい大きさまで育ったらしい。俺には黒い丸にしか見えなかった。
「明日じゃダメなのか」
「明日には排卵してる。そしたら次は3週間後」
「3週間くらいなら」
「競走馬は1月1日でみんな一斉に1つ歳を取るの。3週間遅く産まれたら、その分ちっちゃいまま同じレースを走ることになる」
……育成ゲームに、誕生日補正はなかった。
「……行こう」
「最初からそう言って」
◇
朝5時。
馬運車のエンジンが、やたらとでかい音で唸っている。
運転席は宮田さん。座席は3人がけで、真ん中が俺だ。レバーが膝に当たる。
奏は窓側から、荷台のほうを何回も振り返っていた。
「機嫌いいですかね。あいつ」
荷台のツキノシズクは、さっきから鼻をよく鳴らしていた。
「発情してるだけだ」
身も蓋もない。
カムイボシの牧場の門をくぐったのは、6時過ぎだった。
牧場主はもう庭先に立っていた。
「遅い」
「時間通りです」
「早く来て悪いことはない」
理不尽だ。でもこの人が言うと、本当にそう聞こえる。
「まず試す」
牧場主がそれだけ言って、奏が小声で足してくれた。
「試情馬っていう、相手の様子を見る用の馬。本命はまだ出てこないの」
「オーディションみたいなもんか」
「言い方」
ツキノシズクが柵越しに試情馬と鼻を寄せる。
耳が後ろに倒れかけた。
……ダメか、と思った直後。
尻尾が上がった。腰も、ゆっくり落ちる。
「よし」
牧場主が短く言った。それで全部決まったらしい。
奏が尻尾に包帯を巻いて、後ろ脚に保護のブーツをはかせていく。
宮田さんが手綱を持つ。牧場の若い衆は反対側につく。みんな動きに迷いがない。
俺は?
やることがない。
牧場主が柵を顎でしゃくった。
「素人は外だ」
「はい」
牧場主なのに、見学席だ。
育成ゲームなら、配合はボタン1つで終わる。演出のカットインが入って、結果が出て、次のターンだ。
現実は、朝の6時半に柵の外で突っ立っている。
「今日付くとは限らん」
牧場主が、柵の向こうからこっちを見た。
「付かなきゃまた3週間後だ。その頃には、あんたの2回目の支払いが来る」
「……知ってます」
知っているけど、わざわざ言わないでほしい。
ポケットの中で万年筆を握る。
それだけで、少し落ち着いた。
カムイボシが引かれてきた。
8歳の鹿毛。首が太くて、脚は思ったより細い。故障歴があるのが、ぱっと見でも分かった。
目が合った。
視界の端に光る文字が浮かぶ。
【配合相性:◎(ツキノシズク)】
……まだ◎だ。それだけで、少し息ができた。
隣で宮田さんが、こっちをちらっと見た。
カムイボシがまっすぐこっちに歩いてきた。
柵に首を乗せて、俺のパーカーの匂いを嗅いでいる。
「そっちじゃない」
牧場主の声が飛んだ。
「いや、俺じゃないです」
「あんたに会いに来たんじゃない!」
人懐こいのは知っていた。でも今日だけは、牝馬のほうを向いてくれ。
引き綱を引かれて、ようやくカムイボシが向きを変えた。
ツキノシズクの後ろに回る。
その瞬間だった。
ツキノシズクの後ろ脚が、空を蹴った。
ガンッ、と柵が鳴る。
カムイボシはすぐに2歩下がった。
「――っ」
奏が息を止める。
蹴られても暴れない。賢さBは伊達じゃない。
いや、感心してる場合じゃない。
「初めての相手だと、こういうことがある」
牧場主の声は落ち着いていた。
「焦るな。もう一度やる」
奏がツキノシズクの首に手を当てた。
「大丈夫、大丈夫だよ。いい子。びっくりしたね」
声が違う。
さっきまで俺に「言い方」と言っていた人間と、同じ声帯とは思えない。甘くてやわらかい声だった。
「あの声、俺には1回も出さないよな」
「出す理由がねぇだろ」
宮田さんが即答した。
ツキノシズクの呼吸が、ゆっくり落ち着いていく。
尻尾がもう一度上がった。
カムイボシが近づく。
今度は蹴られなかった。
カムイボシが前脚を下ろした。
牧場主が、短く息を吐く。
……1分もかからなかったと思う。
時計を見ていなかったから、正確には分からない。
馬同士がゆっくり離れて、若い衆が引き綱を持ち直した。
誰も何も言わない。
「終わった」
牧場主がぽつりと言った。
力が抜けた。
俺は柵に寄りかかって、そのままずるずるしゃがみ込んだ。何もしていないのに。
「陸、大丈夫?」
「大丈夫。何もしてないから」
「だよね」
肯定された。悲しい。
「あとは16日目にエコーで見る。付いてれば、そこで分かる」
奏が手袋を外しながら言った。
「付いてれば、な」
牧場主はそう言って、ほんの少し口の端を上げた。
「まあ、いい馬だ。あんたの馬も、うちの馬も」
初めて褒められた気がした。
◇
帰りの馬運車は、行きよりずっと静かだった。
荷台のツキノシズクは、疲れたのか鼻も鳴らさない。
窓の外を、吉岡牧場の柵が流れていく。
うちの放牧地と地続きの、あの柵。
今日は誰もいない。看板も、何も貼られていなかった。
「吉岡さんの話、本当なんですかね」
「まだ噂だ」
宮田さんは前を向いたままだった。
「向こうが売る気になるとは、限らん」
「でも、桜庭が本気なら」
「金があるやつは、断られても諦めん」
……励ましなのか脅しなのか、判断がつかない。
空気を破ったのは、奏のスマホだった。
「あ」
「どうした」
「桜庭ステーブルの公式が、今朝から告知してる。……見て」
画面をこっちへ向けてくる。
種牡馬『グランクレスト』と、自家の看板牝馬『ミスティアリア』。
今季最大の配合、だそうだ。
種付け料の欄に、数字が載っていた。
「1回2000万円……」
「うちのカムイボシ、15万だったよね」
「133倍」
言ってから、自分でも変な計算をしたと思った。
「なんで即答できるの」
「ゲーム脳」
「比べるのやめなよ」
「比べてない。数えてるだけだ」
宮田さんが前を向いたまま言う。
「金は、そういうことに使うもんだ」
こっちは9万円の頭金で、ようやく1頭。
向こうは2000万円で、当たり前のように最高の組み合わせを買う。
それでもポケットの万年筆は、まだ握ったままだった。
――負けねぇぞ、桜庭。
口の中だけで言った。
隣の奏がこっちを見た気がする。
「何か言った?」
「何も」
◇
それから16日が経った。
馬房の前に、簡易のエコー機が置いてある。
獣医の先生は、隣の牧場の往診で遅れているらしい。
先に見ていいと言われて、奏が肩まで手袋をはめた。ツキノシズクの後ろに立つ。
俺と宮田さんは、馬房の入口で並んで見ている。
誰も喋らない。
馬の呼吸と、機械の小さな音だけが聞こえる。
奏の顔が、画面を見たまま動かなくなった。
長い。
やたらと長い。
……ダメだったのか。
そう思いかけたところで、奏が口を開いた。
「――いる」
「え」
「いた! 陸、いるよ! ほら、ここ!」
奏が画面を指さして振り返った。目が笑っている。というか、ほとんど泣いている。
画面の真ん中に、黒い小さな丸があった。
「これか」
「これ! 胎胞!」
「豆粒より小さいな」
「豆粒でも命なの!」
怒られた。奏が指を折って足す。
「これでほぼ確定。最後の確認は、30日過ぎてからもう1回。心拍を見るから」
2回目もあるのか。心臓に悪い。
でも俺の顔もたぶん、変な形になっていた。
隣で宮田さんが帽子を取った。
何も言わずに頭をぐしゃぐしゃと掻いて、それから背を向けて、馬房のバケツを持ち上げる。
「宮田さん?」
「……水、替えてくる」
まだ半分残っているバケツを持って出ていく声が、少しだけ鼻にかかっていた。
◇
その夜、事務所で3人で乾杯した。
俺は缶ビール。宮田さんはワンカップ。奏は運転があるから麦茶だ。
缶と瓶と紙コップがぶつかる音は、全然揃わなかった。
「乾杯」
「乾杯」
「乾杯する理由がちゃんとあるって、いいね」
奏が麦茶を飲みながらしみじみ言う。
「男の子かな。女の子かな」
「どっちでもいい。元気なら」
「うわ。まともなこと言った」
「俺だって言う」
宮田さんがワンカップを傾ける。
「三上がまた言い触らしてるらしい。来週、見てほしいって馬が2頭いるそうだ」
「……鑑定料、また出ますかね」
「出るかは知らん。行くのはお前だ」
それきり黙って、ワンカップを減らしていく。
半分ほど減ったところで、ぼそっと口を開いた。
「先代も、そういえば昔よく馬を見て唸ってたな」
缶を持つ手が止まった。
「爺さんが?」
「馬の前でじっと黙って、しばらくしてから『よし』って言う。何がよしなのか、こっちは分からん」
宮田さんが俺のほうを見た。
「今日のお前も、同じ目をしてた」
「……そうなんですか」
ポケットの中で、万年筆に触れる。
冷たい軸が指に当たった。
爺さんも、馬を見て何かを視ていたのか。
それとも、ただ唸っていただけなのか。
聞ける人は、もういない。
「あ、そういえば」
奏が麦茶を置いた。
「言うか迷ったんだけど。今日、うちの父が言ってたの」
「何を」
「桜庭のところ、ミスティアリアも付いてたんだって。うちと同じ日に確認したらしいよ」
缶の中身が、急にぬるくなった気がした。
「同じ日」
「同じ時期に産まれるらしい。同じ年の、同じ世代」
宮田さんがワンカップを置く。
置く音が、やけに大きかった。




