交渉成立
見積書の数字を見て、俺はしばらく固まっていた。
「……15万円」
『カムイボシ』の種付け料。安い部類だと聞いていたはずなのに、それでも桁が足りない。
手持ちは9万円弱。差額は6万円。
厳選勝負で外れを引き続けたときの、あの重たい手応えに似ていた。
「陸、生きてる?」
声に顔を上げると、奏が呆れ顔でこっちを覗き込んでいた。作業着のまま、白衣も羽織らずに事務所へ上がり込んでいる。
『ツキノシズク』の様子見に来ただけなのに、置物扱いされている。
「金が足りない」
見積書を見せると奏の眉が寄った。
「6万も? 安い馬なんじゃなかったの」
「安いんだよ。安いなりに、うちには高いだけで」
奏が腕を組む。しばらく黙ってから、口を開いた。
「うちの父、頼ってみる? 少しくらいなら動かせると思うけど」
『篠宮ファーム』。
その4文字が、桜庭に見下された記憶と重なって、喉に引っかかった。
プライドと現実。比べるまでもない。
「……今回だけだからな」
「今回だけって台詞、二度目からは信用しないことにしてる」
「うるせぇ」
奏が笑う。
「父経由じゃなくて、直接動くよ。あそこの牧場主、実習先でお世話になった人だし」
「助かる」
「今日は素直じゃん」
カルテを片手に立ち上がりながら、奏がそう言った。
「跛行のほうは大丈夫そう。明日もう1回だけ見せて」
「ついでで悪いな」
「ついでは陸のほうだから」
言い返せず口を閉じた。
◇
カムイボシの牧場に着いたのは、翌日の昼過ぎだった。遠くの山の稜線に、まだ雪が張り付いている。
車を降りると、馬房の匂いが鼻をついた。この匂いにも、もうだいぶ慣れた。
案内された事務所で、牧場主は最初から渋い顔だった。壁際に積まれた古い賞状の額が、年季を物語っている。
「分割、ねぇ」
「頭金は、今すぐ払えます」
「気持ちはわかるが、こっちも商売でな」
腕を組んだまま、値踏みするような目でこっちを見てくる。
手が、止まった。
奏が横から口を挟んだ。
「おじさん、篠宮ファームの奏です。この人、大丈夫な人だから」
「篠宮さんの……」
牧場主の口調が、わずかに柔らかくなった。それでも、頷きはしない。
「信用と金は別だよ。うちはうちで、生活かかってる」
もっともだ。情に訴えたところで、財布の中身が増えるわけじゃない。
「この馬は化けます。俺が保証します」
「兄ちゃんに何が分かる」
「わかります。カムイボシは、故障歴のせいで安く見られてるだけです。中身は本物だ」
早口になっている自分に、少し驚いた。
万年筆で視えたものは口にできない。でも、確信は言葉にできる。
「うちのツキノシズクとの組み合わせは、他のどの馬より良いんです。それだけは間違いない」
「……間違いない、ときたか」
牧場主が鼻で笑った。
「そこまで言うなら聞くが、どこが気に入った」
「顔です。あと、鼻の突き方」
「は?」
「人懐こいんですよ、この馬。故障歴持ちって、大体どこかで人を警戒するもんですけど、コイツは違う」
馬房のほうを見ると、カムイボシがこちらへ首を伸ばしていた。
「……確かに、妙に人懐っこいのは認める」
「そういう馬が、化けないわけないんです」
「何の理屈だ、それ」
奏が小さく噴き出す。
牧場主は、しばらく黙って俺を見ていた。ストーブの薪が爆ぜる音だけが、事務所に響く。
「分割にしたところで、うちの旨みは薄い。それでも構わんのか」
「構いません。それだけの価値がある馬です」
「本気で言ってるのか」
「本気です。化けなかったら、俺の見る目がなかっただけの話です」
牧場主が、もう一度カムイボシの馬房に目をやる。長い沈黙が続いた。
「熱意だけじゃ、こっちの帳簿は埋まらんぞ」
もっともだ。ここで押し切れるほど、世の中は甘くない。
「分割の埋め合わせに、初年度に生まれる産駒の所有権、一部をお譲りします。うちの血統としても、記録に残ると思うので」
「……そこまで、譲るのか」
牧場主の目つきが変わった。
「それだけの価値がある馬だと思ってます」
「……そこまで言うなら――いいだろう」
「本当ですか」
「分割でいい。頭金と、あと2回。無理のない範囲でいい」
「助かります」
「産駒の権利は、正式に書面で残そう。うちの血統としても、な」
「もちろんです」
「化けたら、うちの名前も少しは広めてくれよ」
「絶対、そうします」
牧場主が、少し笑う。
「若いのに、目だけは一人前だな」
差し出された手を握る。分厚くて、乾いた手だった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。結果で見せてくれ」
事務所を出ると、腹の虫が鳴った。緊張して、昼を食いそびれていたらしい。
「よかったね」
「ああ」
「私のおかげ、って言っていいんだよ」
「……ありがとう、助かった」
「今日はやけに素直だね」
奏がにやけている。
車に乗り込みながら、馬房のほうを振り返った。あの人懐こい目をした馬が、うちの未来を背負うことになる。
帰りの車内、奏がラジオをつけた。知らない曲だったけど、なぜか気分に合っていた。
「はぁー、緊張したー」
「緊張してたのお前かよ」
「陸より肝据わってるの、私だけだし」
否定できないのが悔しい。
◇
牧場に戻ると、宮田さんが軽トラの荷台から飼料袋を下ろしていた。
「決まりました。分割で、初年度の産駒の権利を一部渡す条件です」
「……よくまとめたな」
手を止めて、こっちを見る。
「奏の口利きです」
「私は口添えしただけ。決めたのは陸だよ」
宮田さんが、少しだけ目を細めた。
「先代も、ああいう頑固親父の口説き方は苦手だったな」
「爺さんが?」
「勘だけで押し切るところは、似てるがな」
褒められているのか、よく分からなかった。
放牧地の隅で、ツキノシズクがこっちを見ていた。
あとは、この2頭に賭けるだけだ。種付けと、懐妊と、その先にある産駒に――何もかもを。




