金がない
種牡馬カタログの数字を見て、俺は声を失った。
「……1回、300万円?」
「人気どころは、大体そんなもんだ」
宮田さんが、事務所の机に何冊もカタログを積み上げていく。ストーブの上でやかんが小さく湯気を立てていた。表紙を飾るのは、いかにも実績のありそうな馬体ばかりだ。ページをめくるたび、種付け料の桁がじわじわ増えていく。ソシャゲの課金額表示で言えば、いきなり最高額のパックから提示されている気分だった。
「もっと安いのは、ないんですか」
「ないわけじゃねぇが」
宮田さんが別のページを開く。安い部類でも、数十万円単位だった。うちの所持金は、もう10万円を切っている。カタログの取り寄せと、あちこち見て回る交通費で、じわじわ削れていた。
頭の中で、無理やり編成を組んでみる。予算内に収まる種牡馬×手持ちの繁殖牝馬。だが、どう組み合わせても【配合相性】の欄が良く見えても、CやDばかりだ。低予算編成でSSRを引き当てようとするような、無謀な試みだった。
「『桜庭ステーブル』が、今年も有力どころを軒並み押さえてるって噂だ」
「……あの人たちが?」
応接室で見た涼しい顔が、脳裏をよぎる。データと資金力で、市場ごと押さえにかかってくる。統計上、正しい戦い方なのだろう。
「なんでも、上位10頭のうち7頭には、もう予約が入ってるらしい」
「7頭って……」
「金のあるとこが、いい馬を独占する。世知辛ぇ話だが、それが現実だ」
宮田さんの声には、諦めとも呆れともつかない響きがあった。
窓の外、放牧地の隅で『ツキノシズク』がのんびり草を食んでいるのが見えた。あの馬の価値を証明できるのは、俺の鑑定眼と、それに見合う相手だけだ。牧場の借金800万円、祖父が遺した言葉の意味、そのすべてが、この配合1つにかかっている気がした。
テーブルに広げたカタログを、もう一度端から端まで見直す。予算内に収まりそうな馬は、1頭も見当たらなかった。
――詰んだ、これ。
攻略サイトを見ても、序盤で詰みルートに入ったときの絶望感に近い。だが、ここでゲームオーバーの画面を眺めているわけにはいかなかった。
「宮田さん、カタログに載ってない馬は」
「ん?」
「人気なくて、載せてもらえないような。近くにいませんか」
宮田さんが、少し驚いた顔をした。それから、顎に手をやって考え込む。
「……まあ、探せばいなくはないが。正直、期待はできんぞ」
「それでも、見てみたいです」
◇
人気種牡馬の道が塞がっているなら、別の道を探すしかない。翌日、雨は上がっていたが、空はまだ灰色だった。俺は宮田さんの軽トラの助手席に揺られながら、頭の中で掘り出し物探しの算段を組み立てていた。周回プレイと同じだ。人気のない選択肢の中にこそ、見落とされた当たりが眠っている。
「宮田さん、ここのオーナーさんとは長いんですか」
「……まあ、長いっちゃ長いな」
宮田さんが、少し間を置いてから答えた。
「先代の頃からの付き合いだ。頑固だが、悪い人間じゃねぇよ」
案内された種牡馬展示場には、カタログに載らないような無名の馬たちが並んでいた。どの馬も、値札は驚くほど安い。
「この辺は、正直どれも人気ないよ」
展示場の牧場主が、気の抜けた調子で言う。
「安いのには、それなりの理由があるってことっすよね」
「まあね。故障歴があったり、戦績が地味だったり」
万年筆をポケットから取り出し、俺は1頭ずつ向き合っていく。
最初の馬は、【C】【D】【C】【D】【D】。評判どおり、平凡を絵に描いたような数値だった。次の馬も似たようなもの。これは外れ、これも外れ。厳選作業でハズレを連続で引いているときの感覚に似ている。何十連ガチャを回しても金の光すら出ない、あの重たい手応え。
3頭目は、やたら威勢よく蹴りを入れてくる暴れ馬だった。【根性:A】と出て一瞬色めき立ったが、他の項目は軒並みE。気性の荒さだけが取り柄らしい。
「そいつは気をつけろよ、噛みつくから」
牧場主に注意された直後、実際に袖を甘噛みされて飛びのいた。それでも、諦めずに次、また次と鑑定を続けた。
展示場の隅、他の馬より少し年季の入った馬房に、1頭の鹿毛がいた。他の馬房より心なしか静かで、目つきだけは穏やかに澄んでいた。
【カムイボシ(牡・8歳)】
【スピード:B】【スタミナ:A+】【パワー:C+】【根性:C+】【賢さ:B】
【配合相性:◎(ツキノシズクとの組み合わせ)】
――は?
二度見した。スタミナA+。しかも配合相性は、最高評価の◎。
「この馬は?」
「ああ、『カムイボシ』。……こいつは人気ないよ。故障歴があるからね」
「故障歴、ですか」
「若い頃に脚を痛めてな。それからずっと、期待外れ扱いだ。現役時代の戦績も、勝ち星こそあったが地味なもんでね。デビューが遅れた分、周りに追いつけなかった」
牧場主の口調に、悪意はなかった。ただ、市場の評価をそのまま口にしているだけだ。桜庭の言葉と、どこか似ている。
「種付け料も、この辺じゃ一番安いくらいだよ。誰も欲しがらないから」
――人気がないのと、弱いのは、違う。
スタミナに優れ、パワーも決して低くない。故障さえなければ、もっと違う評価をされていたかもしれない。……期待外れって、いったい誰の目線の話だよ。
ツキノシズクのスタミナAと根性A-。カムイボシのスタミナA+。噛み合わせを想像するだけで、頭の中が勝手に色めき立つ。攻略サイトの「解放厳選」の項目に、赤字で「必見」と書いてあるような相性だった。
「……これ、化けるな」
声が、思わず漏れた。
「兄ちゃん、こいつのどこがそんなに気に入った?」
牧場主が、怪訝そうにこちらを見る。
「勘です。……あと、経験」
根拠は言えない。だが、確信だけはあった。周回してきた者にしか分からない、掘り出し物の匂い。
カムイボシが、こちらへ首を伸ばしてくる。鼻先で俺の手のひらをそっと突いてきた。人懐こい仕草だった。長年、期待外れ扱いされてきたにしては、随分と穏やかな目をしている。
この馬だ。他のどの高額種牡馬より、ツキノシズクとの相性で言えば、これ以上の相手はいない。
「宮田さん、この馬に決めます」
「あぁ? ……本気か」
宮田さんが、意外そうに目を見開く。だが、それ以上は聞いてこなかった。長年の付き合いで、俺が適当を言っていないことくらいは伝わっているのかもしれない。
牧場主に聞いてみると、種付け料自体は決して高くない。人気がない分、価格も控えめだ。
それでも、今の俺たちの財布には、まだ足りない金額だった。
「値切り交渉、できますかね」
「そりゃ、やってみなきゃ分からんが……相手にも事情があるからな」
足りない額を頭の中で数え直す。あと、数万円。桁が1つ小さいだけに、逆にどうにもならない現実味があった。
「……次は、交渉だな」
どう頭を下げるかは、まだ決まっていなかった。




