答え合わせ
俺には、何もない。あるとしたら、この目だけだ。祖父の万年筆を握ったときだけ視える、正体不明のステータス画面。
だが「視える」と「本物だ」の間には、まだ大きな溝がある。長距離バスの疲労が見せた幻でも、都合のいい思い込みでもないと言い切るには、根拠が足りなかった。
それを埋める方法は、1つしかない。すでに評価が定まっている馬で、答え合わせをすればいい。
◇
「本当に、うちの馬見て回るだけでいいの?」
軽トラの助手席で、奏が半信半疑の声を上げた。
「牧場経営の勉強をさせてくれ。継ぐって決めたはいいけど、俺、馬のことなんてほとんど知らないし」
半分は本音、半分は建前だった。他人の馬をじろじろ見て回る口実としては、悪くない出来だと自分では思う。
「まあ、いいけど。父は商談で出てるから、好きに見て。変なことしなければ」
最後の一言に、微妙な棘があった。聞こえなかったふりで押し通す。
篠宮ファームの厩舎は、ひなた牧場とは別世界だった。整然と並んだ馬房、行き届いた設備、壁には過去の勝利ジョッキーとの写真が何枚も飾られている。牧場シミュレーションでいえば、初期資金カンストで始めたセーブデータだ。
その一角に、ひときわ落ち着いた佇まいの鹿毛がいた。
「その馬は?」
「『ゴールドマーチ』。うちの看板馬。オープン特別を2勝してる、うちで一番の稼ぎ頭」
奏の口調に、隠しきれない誇らしさが滲む。
「戦績、詳しく聞いてもいいか」
「新馬戦から3連勝、その後は1勝クラス、2勝クラスをあっさり抜けて、オープン特別で2つ勝ってる。今は次の重賞挑戦を検討中」
文句のつけようがない経歴だった。獲得賞金だけで、ひなた牧場の借金を何年分か賄えそうな数字が、頭の中をちらつく。
俺はさりげなくポケットの万年筆を握った。
【ゴールドマーチ(牡・5歳)】
【スピード:A】【スタミナ:B+】【パワー:A-】【根性:B】【賢さ:C+】
【配合相性】――(比較対象なし)
【成長タイプ:普通】
――出た。
オープン級を勝ち上がった馬に、Aランクが2つ。……実績と数値が、綺麗に噛み合っている。
心臓が跳ねるのを、なんとか顔に出さないようにこらえた。育成ゲームなら、初期選択のキャラが実際の攻略サイトの最強評価と一致した瞬間だ。この一致は、偶然で片づけるにはできすぎている。
「陸? 何黙ってんの」
「いや……すごい馬だなって」
「でしょ。うちの父の目に狂いはないから」
誇らしげな奏の隣で、俺は内心だけでガッツポーズを決めていた。
――これは、当たる。
口には出さなかった。出した瞬間、頭がおかしくなったと思われて終わりだ。代わりに、頭の中で何度もその数値を反芻した。念のため、隣の馬房にいた若い馬にも同じことを試す。
【B】【C+】【B-】【C】【B】
まだ実績のない未勝利馬だという。Aランクは1つもない。ゴールドマーチほどではないが、平凡でもない――このハズレ値のなさも、鑑定眼が出鱈目じゃない裏付けに見えた。
◇
帰りの軽トラの中、奏はハンドルを握りながら、やけに真剣な顔をしていた。
「あのさ、本当に分かってる? 牧場経営」
「……いや、正直まだ何も」
「種付け料、預託料、飼料代、獣医代。全部先払いで、賞金取れなきゃ丸ごと赤字。うちみたいな名門でも、毎年何頭かは損切りしてる」
「損切りって、具体的には」
「言っとくけど、聞いたところで甘くはならないよ」
釘を刺してから、奏は続けた。
「セリに出しても値がつかない、それどころか出走してもコストが賄えない。そうなったら、地方移籍か、引退させて余生を送らせるか」
「種付け料って、相場どのくらいなんだ」
「ピンキリだけど、人気の種牡馬なら1回100万円超え。人気薄なら数万円で付けられるのもいる。ただし人気薄は、当然そのぶんリターンも読めない」
――ソシャゲの天井ガチャより渋い還元率じゃないか。
数字と現実が並ぶたび、助手席の俺は無言でうなずくしかなかった。想像していた以上に、シビアな世界らしい。
「うちは基盤があるからまだいいけど、陸のところは、初手から借金800万だからね」
「……分かってる」
「中途半端な覚悟なら、今すぐ畳んだほうがいいよ。借金だけ増えて終わる牧場、いくつも見てきたから」
奏の声に、からかいの色はなかった。本気の忠告だった。
「本気だ」
考えるより先に、答えが口をついて出る。
「……即答すぎ」
奏が目を丸くしてから、噴き出すように笑った。こんな顔をされるとは思わなかった、というふうに。
「でも、まあ……。じいさんの牧場、簡単に潰されたくないっていうのは、私も同じかな」
「奏がそう思う理由、聞いてもいいか」
「……今はいい。いつか、気が向いたらね」
ハンドルを握る手に、わずかに力がこもるのが見えた。その先までは、聞けなかった。
◇
ひなた牧場に戻ると、俺は真っ先に馬房へ向かった。万年筆を握り、改めて『ツキノシズク』と向き合う。
【ツキノシズク(牝・6歳)】
【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】
さっき見た『ゴールドマーチ』の数値を、頭の中で並べてみる。
スピードはB+対A、たしかにゴールドマーチが上だ。だがスタミナはA対B+、根性もA-対Bで、ツキノシズクのほうが上回っている項目がある。
オープン特別を2勝した名門の看板馬と、外れ血統と評されて安値放出寸前だった牝馬。数値だけ見れば、決して見劣りしていない。むしろ得意分野が違うだけだ。
――嘘だろ。……これ、化けるな。
なぜ誰も気づかなかったのか。血統表の見栄え、パドックでの印象、査定人の勘。理由はいくつも考えられるが、どれも決め手にはならない。今の俺には、その謎解きより先にやることがある。
じゃあ、あとは何が要る。答えは1つしかなかった。
「じゃあ、次は――誰に付けるか、だな」
配合相手。ツキノシズクのスタミナと根性を活かせる種牡馬を探す。それが、次にやるべき仕事だと自然に頭が動いていた。
声に出したところで、隣で作業していた奏が振り返る。
「配合、もう考えてるんだ」
「早いほうがいいだろ、種付けシーズンだし」
「へえ、意外とやる気じゃん」
からかうような声だったが、悪い気はしなかった。……周回ゲーでは、のんびりしていたら旬を逃す。それは現実でも同じだろう、たぶん。
「なら、ちょうどいいかも」
奏の口調が、急に何かを含んだものに変わる。
「うちの父に紹介したい人がいるんだけど」
「誰だ」
「桜庭ステーブルの人。今度、うちに商談で来る予定なの」
軽い調子だったが、その名前だけで、なぜか胸の奥がざわついた。
「……桜庭、ステーブル」
聞き覚えはあった。北海道の生産界隈で、知らない者はいない大手だ。ゴールドマーチ級の看板馬を、何頭も牧場に抱えている規模だという。
自分の「掘り出し物」に浮かれていた頭の中に、冷たい風が一筋、吹き込んだ。




