視えているのは、俺だけらしい
目を覚ました瞬間、右手に硬い感触があった。
万年筆だ。じいさんの部屋で遺品を整理しているうちに、いつの間にか眠り込んでいたらしい。畳の上で丸くなっていたせいで、首と肩がやけに痛む。窓の外はまだ青みがかっていて、東京の朝よりずっと遠慮がちに白んでいく。
昨夜のことを、頭の中でもう一度なぞってみる。
万年筆を握った瞬間の耳鳴り。馬房で『ツキノシズク』と目が合った刹那、視界に浮かんだ見慣れない文字の羅列……。あれは、長距離バスの疲労が見せた幻だったんじゃないか。
――だとしたら、都合が良すぎる。
ゲームなら、こういう不自然な挙動は大体どちらかだ。ただのグラフィックバグか、見逃せないイベントフラグか。
迷っている暇はなかった。確かめない理由のほうが、俺には見つからなかった。
◇
厩舎に着くと、朝の冷気の中で馬たちが白い息を吐いていた。『ツキノシズク』は昨夜と同じ場所で、こちらを一瞥もせず干し草を食んでいる。
柵の前に立ち、上着のポケットから万年筆を取り出す。握り直して、息を止め、目を凝らした。
――視えた。
【ツキノシズク(牝・6歳)】
【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】
【配合相性】――(比較対象なし)
【成長タイプ:晩成】
馬の輪郭に沿うようにして、昨夜と同じ文字が浮かんでいる。今度ははっきり読めた。ゲームのステータス画面、そのものだった。ただし、コントローラーはどこにもない。
試しに、万年筆を握った手を開いてみる。
文字が、すっと消えた。
もう一度握る。また視える。
……マジか。
心臓が、ひとりでに速度を上げていく。育成ゲームの厳選作業で何十時間も粘って、ようやく理想個体を引いたときの手応えに似ていた。ただし今回は、画面の向こうの話じゃない。息は白いし、干し草の匂いもするし、指先はかじかむほど冷たい。
これが本物なら――じいさんは、こんなものを俺に遺していったことになる。
半信半疑のまま、しばらく万年筆を握ったり離したりを繰り返す。文字が現れては消え、現れては消えた。傍から見れば、相当に怪しい動きをする不審者だ。
「……何やってんだ、俺」
誰もいないのを確かめてから、ようやく声に出して自分に突っ込んだ。
念のため、隣の馬房にいた別の牝馬にも同じことを試す。
【D】【D+】【C】【D】【C-】
こちらは、正直ぱっとしない数値だった。少なくとも、幻覚が毎回都合よく高評価を出すわけではないらしい。それだけで、少しだけ現実味が増した気がした。
◇
「陸」
背後から声がして、万年筆を握ったまま振り向いた。
柵の向こうに立っていたのは、作業着に長靴、髪を1つに結んだ女だった。よく日焼けした顔に、見覚えがある。
「……奏か」
「久しぶり。おじいさんのこと、聞いた。お悔やみ言うの、遅くなってごめん」
篠宮奏。隣町の名門『篠宮ファーム』の娘で、幼馴染だ。最後に顔を合わせたのは、たしか中学の頃だった。
「わざわざ来てくれたのか」
「弔問がてらね。ついでに牧場の様子も見ておきたかったし」
「奏、今何してるんだっけ」
「大学出てすぐ、うちの研修厩務員に放り込まれてさ。人手不足なんだよね、どこも」
言いながら、奏は柵の奥にいた鹿毛の馬にちらりと目をやる。歩き方を数秒だけ観察して、小さく頷いた。……跛行なし、といったところだろうか。獣医の卵らしい癖だ。
それから、奏の目が、俺の右手に留まった。万年筆を、まだ握りっぱなしだったことに気づく。
「さっきから馬を睨んで、握ったり離したり。何のトレーニング?」
「い、いや、別に」
誤魔化そうとした声が、見事に上ずった。奏は疑わしそうに目を細めたが、それ以上は追及してこない。
「で、どうするの。牧場」
「まだ、決めてない」
「継ぐの? 正気?」
早口で放たれた一言に、遠慮のかけらもなかった。
「借金800万でしょ。しかも繁殖牝馬は数頭だけ。しかもそのうちの1頭が――」
奏が顎で示した先には、『ツキノシズク』がいた。
「え」
「その馬、業界じゃ外れ血統で通ってる。うちの父も、査定に来た大手の人も、同じこと言ってた。安値で放出予定だったの、知らなかった?」
外れ血統。安値で放出。
俺の頭の中で、たった今視た【A】や【B+】の文字が、その言葉と噛み合わずに軋んだ。
「……そう、なのか」
平静を装って頷いたが、内心では違う声がしていた。
――おい、それ、評価おかしくないか?
「陸? 聞いてる?」
「あ、ああ。聞いてる」
鑑定眼のことは、まだ誰にも話す気になれなかった。話したところで、頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。
「まあ、いいけど。無理しないでね」
「奏はどう思う。この牧場」
思わず聞くと、奏は少し考えてから答える。
「正直、厳しいと思う。獣医の目で見ても、設備は古いし、頭数も少ない。でも――」
「でも?」
「じいさんが好きだった場所ではあるよね、ここ」
それだけ言って、奏は篠宮ファームの軽トラに乗り込む。走り去るテールランプが雪道の向こうに消えるまで、俺はその場から動けなかった。
◇
奏が帰ったあと、俺は馬房を1つずつ回った。
在厩している馬は数頭。どれも大手が見向きもしない、地味な血統ばかりだ。それでも1頭ずつ、万年筆を握って向き合ってみる。
【C】【D】【C+】……出てくる数値は、正直そう高くない。ゲームでいえば、序盤で仕方なく使う雑魚個体を厳選しているようなものだ。
それでも1頭だけ、【スタミナ:B】という数字を出した芦毛の老馬がいた。すでに繁殖からは退いている馬だという。もう少し早く分かっていれば、と思っても仕方のない話だった。
そして最後に、もう一度『ツキノシズク』の前に立つ。
【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】
他の馬と並べて見て、初めて気づく。この数値は、群を抜いていた。
外れ血統。安値で放出予定。そう評されている馬が、牧場の中で唯一、Aランクを2つも掲げている。
――嘘だろ。
周回した中で、明らかに他と違う輝き方をする個体。厳選勢なら、誰でも知っている感覚だ。理由は分からなくても、体のほうが先に「当たりだ」と告げてくる瞬間がある。
じゃあ、なぜ見捨てられた。誰も気づかなかったのか、それとも気づいた上で他に理由があったのか。
考えても、答えは出ない。出ないが、答えを知る術を、俺だけが持っている。
周回勢の間じゃ、こういう個体をこう呼ぶ。掘り出し物。あるいは、大化け候補。
「……これ、化けるな」
声が、勝手に漏れた。柵にもたれかかったまま、しばらくその場を動けなかった。頬が緩んでいるのが、自分でも分かる。
ツキノシズクは相変わらず、こちらに関心なさそうに干し草を食んでいた。お前がそんな顔をしても伝わらないんだよな、と少しおかしくなる。
◇
厩舎の入り口で、宮田さんが煙草をふかしていた。
「まだいたのか。決心つかねぇか」
「宮田さん」
俺は、握ったままの万年筆をポケットに突っ込んだ。
「継ぎます」
「あ?」
「この牧場、俺が継ぎます」
自分でも驚くほど、迷いのない声が出た。根拠は、誰にも説明できない。だが、あの数値を見てしまった以上、後戻りする理由が見当たらなかった。
宮田さんは煙草の煙を吐き出し、しばらく黙って俺を見ていた。
「本気か。借金800万、笑って背負えるほどの理由があるようには見えねぇけどな」
「理由なら、あります」
「……ま、いい。じいさんも、変なとこで頑固な人だったからな。血は争えねぇってか」
宮田さんはそう言って、短くなった煙草を雪の上で消す。それが、彼なりの合格印らしかった。
――視えているのは、たぶん俺だけだ。
だったら、次にやることは1つしかない。この目が本当に当たるのか、外れ血統以外の馬でも答え合わせをする。……幸い、隣には「名門」がある。




