継いだのは借金まみれの牧場でした
――届け、届いてくれ!
歓声の壁を突き破るようにして、実況の絶叫が耳に刺さる。東京競馬場、直線残り100メートル。先頭を守る白い帽子の逃げ馬に、大外から1頭が並びかけていく。
「――抜けた! これは、抜けたぞ――!」
馬群の中から浮き上がるようにして、俺の生産馬が前に出る。ゴール板が近づくたび、スタンドの声がひとつの塊になって降ってくる。まだ何も成し遂げていないくせに、胸の奥がじわりと熱くなった。
だが、それはまだ先の話だ。
時は遡ること、3年前。
◇
最後の最終面接で、俺は静かに詰んだ。
「弊社としましては、今回はご縁がなかったということで」
丁寧な言葉ほど、断りの通知は速い。ビルを出る頃には、スマホの画面に不採用メールが3件並んでいた。今月だけで、だ。累計にしたら、もう数える気も失せている。
俺、日向陸、24歳。無職。内定ゼロ。
就活というのは、要するに周回だ。エントリーシートを大量生産し、面接という名のボス戦に挑んでは、代わり映えのしない「お祈り」を回収する。レアドロップは、ついに一度も出なかった。ドロップ率0パーセントのイベントに、何百時間つぎ込んだことになるんだろう。
駅までの道で、コンビニのおにぎりを片手に自分を慰める。半額シールの貼られた鮭おにぎり。これが今の俺の、今月の戦利品だ。
大学の同期からのグループチャットが、ポップアップで流れる。「〇〇商事、内定出た」「俺も」「陸は?」
既読だけつけて、返事はしなかった。
スマホが震えたのは、そのときだった。画面には「叔母」の文字。出た瞬間、いつもより低い声が聞こえた。
「陸。おじいちゃんが、亡くなったの」
権三郎じいさん。北海道で、たった1人で牧場をやっていたあの人が。
頭が真っ白になった――というのは嘘だ。むしろ妙に冷静だった。ああ、そうか……それだけだった。おにぎりの残りを、やけにゆっくり咀嚼したのを覚えている。味は、しなかった。
最後に会ったのは、いつだったか。中学の夏休み、牧場に泊まりに行ったとき以来、ほとんど顔も合わせていない。電話は、盆と正月に数分だけ。それすら、この2、3年はしていなかった気がする。
薄情な孫だ、と思う。思うだけで、涙は出なかった。
その場で、北海道行きの夜行バスのチケットを取った。9時間かけて、じいさんの元へ向かう。就活に落ち続けた日々より、その移動時間のほうがよほど長く感じた。窓の外を流れる真っ暗な景色を眺めながら、何度も同じ言葉を頭の中で繰り返していた。継ぐか、畳むか……いや、まだそんな話をする段階じゃない。まずは、線香をあげるだけだ。
◇
潮の匂いより先に、雪と錆びた金属の匂いが鼻をついた。葬儀を終えたその足で、俺は『ひなた牧場』に立っていた。2月の日高は、まだ根雪が残っている。吐く息が白い。
柵は半分傾き、除雪もされないまま雪の壁ができている。塗装は剥げ、馬房は空きが目立つ。だだっ広い放牧地に、風だけが遠慮なく吹き抜けていく。子どもの頃に遊びに来たときの記憶より、ずいぶん小さく、そしてずいぶん古びて見えた。
――過疎エリアかよ、ここ。
牧場シミュレーションでこの見た目なら、開始5分で「閉鎖推奨」の警告が出るレベルだ。
「陸くん。遺言状は、特にねぇ」
声をかけてきたのは、宮田寅蔵さんという厩務員だった。じいさんの代からここにいる、60過ぎの無骨な男だ。北海道訛りが少し混じる。
案内されるまま、馬房をひとつずつ見て回った。在厩している馬は、数えるほどしかいない。どの馬も、決して恵まれた血統ではないらしい。柵の奥で、鹿毛の牝馬が1頭、こちらを一瞥もせず干し草を食んでいた。
「あれは?」
「『ツキノシズク』。うちに残ってる繁殖牝馬の中じゃ、一番マシってだけの馬だ。それでも大手は見向きもしねぇけどな」
特に感慨もなく、俺はふうんと頷いた。このときはまだ、その馬の名前を覚える必要すら感じていなかった。
隣の馬房には、すでに買い手のついた馬が1頭。奥の空いた馬房には、以前いた馬の名札だけが、剥がし忘れたように残っている。何頭分もの「いなくなった」の跡が、そこかしこに残っていた。
ひと通り見終わったところで、宮田さんが本題を切り出した。
「継ぐか、畳むか。3日で決めてくれ」
前置きなしにそう言われた。続けて、数字がびっしり並んだ紙を渡される。
「……800万」
声に出して読んだ数字に、自分で驚く。
「利子は別だ」
宮田さんは表情も変えずに付け足した。
「繁殖牝馬は、それだけっすか」
「『ツキノシズク』含めて数頭。あとは預託料、飼料代、光熱費。どれも待っちゃくれねぇ」
「……もらえる遺産、これだけっすか」
声が、思ったより情けなく裏返った。
「土地と建物と、借金だ」
宮田さんは笑わなかった。冗談ではないということだ。
ソシャゲの重課金ガチャより、よほど分の悪い賭けだった。無職の24歳に、牧場経営。初期資金はほぼゼロ、負債だけは立派に積み上がっている。攻略サイトがあったら、迷わず「非推奨」の赤文字が振られるルートだ。
「北海道まで来て、それだけ聞いて帰ってもいいんすよ、あんた」
宮田さんの声に、若干の突き放しがあった。試されている、と分かった。
……正直、帰りたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。無職の身で、見ず知らずの牧場経営に手を出すなんて、正気の沙汰じゃない。
それでも――と、俺は思う。ここで畳んだら、じいさんが積み上げてきたものが、跡形もなく消える。負債は消えても、それはそれで気持ちが悪かった。損切りにしては、あまりに後味が悪い。
少しの間、黙って紙を見つめる。宮田さんは急かさなかった。
「……今晩、じいさんの部屋、片付けさせてもらっていいですか」
「好きにしろ」
即答するには早すぎる。継ぐにしろ畳むにしろ、せめて、じいさんが最後まで見ていた景色くらいは、見ておきたかった。理由になっているのかも怪しい、ただの気持ちの問題だ。
◇
権三郎の部屋は、驚くほど物が少なかった。
古い帳面、種牡馬のカタログ、色褪せた写真が数枚。若い頃のじいさんが、今よりずっと細い馬の首に手を添えて笑っている1枚があった。裏には日付と一緒に「陸へ、いつかこの目を」とだけ、几帳面な字で書かれている。意味は分からない。じいさんらしい、説明を省いた一言だった。
子どもの頃、この部屋に忍び込んでは、じいさんに「危ない、出てろ」と怒られたのを思い出す。あのときはただの物置だと思っていたが、今こうして見ると、この部屋だけが、牧場のどこよりも整然としていた。
帳面をめくると、馬の名前と、意味の分からない略号がびっしり並んでいた。じいさんなりの管理法だったのだろう。この人も、こういう「厳選」の記録をつけていたのかもしれない。そう思うと、少しだけ親近感が湧いた。
机の引き出しを開けると、奥のほうに万年筆が1本、転がっていた。
安物ではない。かといって、値打ちを誇るような装飾もない。使い込まれて、キャップの塗装がところどころ剥げている。じいさんが日々の帳面をつけるのに使っていた、それだけの道具に見えた。
手に取った瞬間――視界が、揺れた。
いや、揺れたという表現も正確じゃない。耳の奥で、キンと高い音が一瞬だけ鳴った気がした。部屋の輪郭が一瞬だけやけに鮮明になって、次の瞬間には元に戻る。
「……は?」
声が、勝手に漏れた。何度か目を瞬いても、部屋の様子は変わらない。壁は壁のままだし、写真は写真のままだ。ただの古い万年筆でしかない……はずだった。
だが、握った右手だけが、やけに熱い。
妙な胸騒ぎがした。ゲームの厳選作業で、「これは当たりだ」と確信する直前の、あの感覚によく似ている。理屈より先に、勘が反応する瞬間。周回してきた者にしか分からない、根拠のない確信だった。
気づけば俺は、部屋を出て馬房に向かって歩いていた。理由はなかった。強いて言うなら、その勘だけだ。
◇
万年筆を握り直したまま、馬房の柵に近づく。もたれていたのは、さっき宮田さんに紹介された『ツキノシズク』だった。
葬儀の合間に見せてもらった資料には、こう書いてあった――「配合実績に乏しく、業界的には評価の低い牝馬」。要するに、外れ血統。大手が見向きもしない、地味な鹿毛の1頭だ。
柵に近づくと、ツキノシズクがゆっくりとこちらに顔を向けた。大きな目が、値踏みするようにこちらを見ている。
目が、合う。
その瞬間――視界に、見慣れない文字のようなものが浮かんだ。
「――は?」
二度目の「は?」だった。今度は、自分でもそれしか言葉が出てこなかった。
馬の輪郭に沿うようにして、たしかに何かが視えている。アルファベットとも記号ともつかない、けれど不思議と「読める」と分かる並びだ。まるで、隠しステータスが強制的に開示されたような感覚。
万年筆を握る手が、また熱くなった。夜風は冷たいのに、そこだけ体温が上がっている。
――これは、なんだ。




