⑧ 過去回想(聖女の苦悩)
神谷は震える文字を見つめたまま、そこに至るまでの聖女の時間を思った。
最初は、些細な違和感だったのだろう。
王の返答が日によって違う。
昨日は知らぬと言ったことを、今日は昔から知っていると言う。
だが誰も気にしない。
その場にふさわしい答えなら、人は矛盾を飲み込める。
聖女だけが気づいた。
祈りの場で王は敬虔であり、軍議では勇猛であり、民衆の前では慈悲深かった。
どれも王らしい。
だからこそ、不自然だった。
人格が豊かなのではない。
相手に合わせて完成している。
次に、記録が揺れ始めた。
過去の謁見記録の文言が変わる。
侍従日誌の日付がずれる。
古い書簡の内容が、読むたび少し違う。
誰かの改竄なら痕跡がある。
だが痕跡がない。
皆は「見間違いだ」と笑う。
聖女だけが覚えている。
昨日まで別の文だったことを。
さらに、人々の記憶まで変わっていく。
「陛下は昔からそうだった」
「その話なら何度も聞いた」
「最初から三人の勇者がいたはずだ」
存在しなかった過去が、穏やかに共有され始める。
聖女はようやく理解した。
敵は人を殺して侵略するものではない。
世界の記憶へ住み着くものだと。
だが理解しても、剣は届かない。
祈りも届かない。
封印すべき核も、討つべき肉体も見つからない。
敵は王として座っている。
しかも民に愛され、必要とされている。
ここで暴けばどうなるか。
王がおかしい。
何者か分からない。
魔王が内部にいる。
その一言で、城中が王を見る。
民衆は恐れる。
貴族は騒ぐ。
兵は疑う。
学者は考える。
恐怖は注目を呼ぶ。
注目は認識を集める。
認識は像を濃くする。
それが敵の餌だった。
聖女は何度も口を開きかけ、閉じたのだろう。
礼拝堂で。
王の隣で。
祈りの説教の最中に。
「皆さま、聞いてください」と言えば終わる。
だがその瞬間から、世界中が“それ”を意識し始める。
沈黙だけが防壁だった。
だから彼女は一人で抱えた。
日記には曖昧な祈りだけを書く。
祈祷書の余白にだけ真実を隠す。
鏡の位置を変え、視線を逸らし、王の動線をずらし、少しでも固定化を妨げる。
誰にも理解されず。
誰にも相談できず。
むしろ敬虔な聖女として微笑み続けながら。
神谷は机上の押し花へ目を落とした。
色褪せた小さな花々。
忙殺の中でも摘んだのか。
正気を保つために集めたのか。
孤独な人間の習慣に見えた。
聖女は無敵の巫女ではなかった。
ただ一人、知ってしまった人間だった。
そして誰より優しかった。
世界を守るために、誰にも真実を渡さなかったのだから。




