⑫ 真の恐怖
謁見が終わった後も、神谷はしばらく玉座の間を動けなかった。
人々は王の言葉に安堵した顔で散っていく。
「さすが陛下だ」
「深いお考えだ」
「勇者殿も言い過ぎたのでは」
囁き声が遠ざかり、やがて広間には靴音だけが残る。
王はすでに奥の私室へ下がっていた。
空になった玉座だけが、赤い絨毯の先に静かに置かれている。
神谷はその席を見つめた。
先ほどまで、あそこに“王”がいた。
怒りもした。
諭しもした。
笑いもした。
どれも自然だった。
あまりにも自然に、人間だった。
(王は演じているのか?)
優れた役者のように。
王に求められる声を出し、顔を作り、答えを選び続けているだけなのか。
それなら理解できる。
訓練された政治家。
老獪な支配者。
己を捨てて役目だけになった男。
世にいくらでもいる種類の怪物だ。
だが、違和感が残る。
演技なら、どこかに素顔がある。
疲れた時の目。
苛立った時の癖。
一瞬だけ覗く、本音の影。
王にはそれがない。
完璧すぎる。
(壊れているのか?)
記憶が崩れ、人格が裂け、過去と現在の境界が曖昧になっている。
だからその場しのぎの答えしか返せないのか。
それもまた説明にはなる。
この城では、人の認識も記録も狂う。
王だけが無事である保証はない。
だが、それにしては整いすぎている。
壊れた者の乱れがない。
狂気の継ぎ目がない。
狂っているなら、もっと雑音があるはずだ。
王には、雑音がない。
神谷は玉座へ一歩近づく。
赤い布地に、王の体温など残っていない。
空席。
ただの椅子。
なのに誰もがそこへ意味を見る。
権威。
秩序。
国家。
父。
救済。
人々が勝手に重ねる像。
その瞬間、神谷の思考が冷たく沈んだ。
(それとも――)
喉がひどく乾く。
(最初から“誰でもない”のか)
王という人格があるのではない。
男が王を演じているのでもない。
壊れた人間が座っているのでもない。
この玉座に、人々の期待が集まり。
その期待に応じる“機能”だけが座っている。
誰かではなく、役割。
人格ではなく、反応。
人間ではなく、空白。
誰もが求める王の姿を映し返す鏡。
神谷は背筋に寒気を覚えた。
もしそうなら。
この国は一人の王に治められているのではない。
国民全員の願望に操られている。
そして、その願望の形を決めているものが別にいるなら――
「……魔王」
無意識にその名が漏れた。
広間に誰もいないはずなのに、どこかで誰かが笑った気がした。
神谷は振り返る。
誰もいない。
ただ、空の玉座だけが、そこにあった。




