⑩ ラストシーン
夜は、深かった。
城の灯りは落とされ、廊下には人の気配もない。
沈黙だけが支配している。
その中で、神谷は一人、部屋にいた。
机の上には、あの記録。
閉じられたまま、置かれている。
しばらく、動かなかった。
ただ見ている。
(……終わったはずだ)
読むべきものは、すべて読んだ。
結論も出ている。
これ以上、得られる情報はない。
理屈では、そうだった。
だが――
神谷は、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が、表紙に触れる。
(確認するだけだ)
理由をつける。
必要はない。
それでも、開く。
乾いた音が、小さく響いた。
ページをめくる。
最初の方。
正常だった記録。
問題はない。
さらにめくる。
違和感が出始めたあたり。
そこも、変わっていない。
神谷の視線は、自然とあの箇所へ向かう。
崩壊の兆候。
そして――
完全に壊れていたページ。
神谷の指が止まる。
(ここだ)
昼間、確かに読んだ。
意味をなしていない言葉の羅列。
「いる」「おう」「ちがう」
断片だけが並んでいた場所。
神谷は、静かに目を落とす。
そこに書かれている文字を見て、
一瞬、思考が止まった。
文章になっている。
『顔が違う』
『同じはずなのに、違う』
『記録が追いつかない』
整っている。
読める。
意味が通る。
神谷の呼吸が、わずかに止まる。
(……こんな内容だったか?)
違う。
昼間は、こんな文章ではなかった。
もっと崩れていた。
意味を成していなかった。
(書き換わっている?)
あり得ない。
これは紙だ。
インクだ。
後から変化するはずがない。
神谷は無言でページをなぞる。
感触は同じ。
紙も、インクも、変わらない。
だが――
(内容だけが違う)
神谷の視線が、次の行へ移る。
『見ている』
『見えている』
『見えてはいけないのに』
理解できる。
読めてしまう。
(……読めなかったはずだ)
昼間は、“読めなかった”。
意味として処理できなかった。
ただの断片としてしか認識できなかった。
それが今は――
(理解できる)
頭の中に、すっと入ってくる。
まるで、最初からそう書かれていたかのように。
神谷はゆっくりと息を吐いた。
(変わったのか)
ページが。
それとも――
(俺が変わったのか)
その可能性が、静かに浮かび上がる。
神谷は本を閉じなかった。
ただ、そのページを見続ける。
(……どちらでも同じか)
結果は変わらない。
“読めてしまった”。
それが事実だ。
神谷は小さく呟いた。
「……変わった?」
答えはない。
だが、沈黙の中で、
確実に何かが進んでいる。
見えないまま。
音もなく。
ゆっくりと。
神谷は、ページから目を離さなかった。
その奥に、
まだ何かがある気がしていた。




