⑧ 神谷の違和感(重要)
神谷は、再び記録に手を置いた。
閉じたままの表紙。
だが、その中身は、まだ頭の中に残っている。
崩れた文字。
繰り返される言葉。
意味を失った文章。
(完全に壊れていた)
あれは、もう理性のある人間の記録ではない。
思考は途切れ、言葉は崩壊し、
ただの断片が並んでいるだけだった。
それなのに――
神谷の指が、わずかに動く。
(なぜ、“書けている”?)
最後の一文。
『魔王はこの中にいる』
あの一行だけが、異様に整っていた。
筆跡は安定し、
文法は正しく、
意味も明確だった。
まるで、最初の頃のように。
(おかしい)
あの状態から、あの文章は出てこない。
繋がらない。
論理が飛んでいる。
(壊れているはずだ)
ならば――
(なぜ、あれだけは正確なんだ)
神谷はゆっくりと目を細めた。
それは偶然ではない。
あり得ない。
むしろ逆だ。
(“あれだけが正確すぎる”)
崩壊の中に、一点だけ存在する“正常”。
それは異物だ。
(混ざっている)
別の意思が。
別の“意図”が。
神谷の思考が、静かに形を取る。
(誘導されている?)
壊れていく過程の中で、
最後に残される言葉が決まっているとしたら。
それは“本人の意思”ではない。
(書かされた)
その可能性が、はっきりと浮かび上がる。
神谷は、無意識に周囲へ視線を向けた。
誰もいない。
だが――
(見ている)
その感覚だけが、消えない。
どこからか。
何かが。
観測している。
(理解させているのか)
壊れる直前に、
“それだけは理解できるようにする”。
そして、書かせる。
残させる。
神谷は、ゆっくりと息を吐いた。
(……悪質だ)
ただ殺すのではない。
ただ壊すのでもない。
“意味”だけを残す。
(それが狙いか)
その瞬間、神谷の中で一つの仮説が完成する。
(魔王は)
姿は見えない。
だが確実に存在する。
(干渉するだけじゃない)
もっと直接的に、
もっと意図的に、
人間の“理解”に触れている。
神谷は静かに呟いた。
「……導いているのか」
答えはない。
だが、その沈黙こそが、
何よりも強く肯定していた。




