⑫ 真の遺言
沈黙が、長く続いた。
誰もが床の文字を見つめ、そして答えを探している。
だが、“おう”という断片は、もはや意味を固定できない。
王なのか、別の何かなのか。
あるいは、全く別の言葉の一部なのか。
神谷が思考を巡らせていた、そのときだった。
「……あの」
控えめな声が、空気を震わせた。
全員の視線がそちらに向く。
聖堂の入口近く。
一人の女性が、戸惑うように立っていた。
侍女長だった。
彼女は一歩、前に出る。
「申し上げても、よろしいでしょうか」
宰相が目で促す。
「何だ」
侍女長は、わずかに視線を落とした。
迷いがある。
だが、やがて意を決したように顔を上げた。
「聖女様は……亡くなる前に、何度か同じことをおっしゃっていました」
場の空気が、わずかに引き締まる。
神谷の視線も、自然と彼女に向く。
「何をだ」
騎士団長が問う。
侍女長は答えた。
「“いる”……と」
短い言葉だった。
だが、その一言は、床に刻まれた文字よりも重く響いた。
「……いる?」
誰かが繰り返す。
侍女長は頷いた。
「はい。“いる”と」
「何がだ」
騎士団長の声が低くなる。
侍女長は一瞬だけ言葉に詰まり、そして続けた。
「それ以上は……」
首を振る。
「ただ、その一言だけを、何度も」
沈黙。
神谷の中で、何かが繋がる。
(“いる”)
単純な動詞。
だが、それは“存在”を指す言葉だ。
何かが、存在している。
どこかに。
(なら――)
神谷の視線が、再び床へと落ちる。
“おう”
その断片。
未完成の言葉。
(繋がるか?)
頭の中で、組み合わせる。
“おう”と“いる”。
順序。意味。文脈。
そして――
聖女が、死の間際に伝えようとしたこと。
神谷はゆっくりと目を細めた。
(これは告発じゃない)
(報告だ)
誰かを指し示す言葉ではない。
“存在”を伝えるための言葉だ。
神谷の中で、言葉が形を持ち始める。
(この中に――)
まだ断定はしない。
だが、確実に近づいている。
神谷は静かに顔を上げた。
その視線の先には、この場にいる全員。
王も、宰相も、騎士団長も、侍女も。
例外なく。
(聖女は言おうとした)
(“何かがいる”と)
その事実だけが、静かに場を侵食していく。
そしてそれは、先ほどまでの疑念とはまったく違う性質を持っていた。
個人ではない。
もっと曖昧で、もっと不気味な何か。
“ここにいる”もの。
神谷は、わずかに息を吐いた。
(……そういうことか)
まだ言葉にはしない。
だが、核心はすぐそこまで来ていた。




