⑨ 亀裂
王はゆっくりと息を吸った。
玉座の間にいる全員が、その口元を見ていた。
今や視線は敬意ではなく、確認のために集まっている。
王が何を語るのか。
王は誰なのか。
その注視の中で、王は答え始めた。
「幼き日、私は――」
声はいつも通り落ち着いていた。
だが次の言葉が、わずかに遅れる。
「先王との……祈祷で……」
神官長が顔を上げる。
祈祷。
自分の期待した答えが返ってきたと、一瞬だけ安堵する。
だが次の瞬間。
「剣を学び……その後、舞踏の庭で……」
騎士団長の眉が跳ねる。
剣術。
だが舞踏?
貴族たちがざわつく。
王は続けようとする。
「狩猟の鐘が鳴り……書庫の月明かりで……」
言葉と言葉が噛み合わない。
先王との祈祷。
剣術鍛錬。
舞踏会。
狩猟。
書庫。
本来なら別々の記憶として存在すべきものが、ひとつの文章へ無理やり縫い込まれていく。
場の空気が変わった。
誰ももう内容を聞いていない。
壊れ方を見ている。
王の表情が揺れた。
威厳。
顎が上がり、王者の顔になる。
次の瞬間、慈愛。
口元が柔らかく緩み、民を包む父の顔。
さらに苛立ち。
眉間が寄り、視線が鋭くなる。
そして――空白。
何もない顔。
感情も意思も歴史も映っていない、空の仮面。
その変化が、一呼吸ごとに切り替わる。
まるで誰かが舞台裏で面を差し替えているように。
ざわめきが広がった。
「……何だ今の」
「陛下のご様子が……」
「顔が……違った?」
「見間違いか?」
兵士たちの槍先が下がる。
貴族たちは後ずさり、神官長は祈りの珠を取り落とした。
記録官は筆を止めたまま、紙へ墨を垂らしている。
老宰相が一歩、前へ出た。
杖の先が床を鳴らす。
その声は、かすれていた。
「陛下……?」
長年仕えてきた男の問いだった。
忠臣としてではない。
この場で初めて、“確認”として口にされた問い。
王は宰相を見る。
だがその視線の中に、長年の主従の記憶は見えない。
あるのは、問いに対して適切な顔を探す動きだけだった。
神谷は息を吐いた。
確信だった。
これは嘘つきではない。
記憶喪失でもない。
演技の達人でもない。
単一人格ではない。
相手ごとに最適化された反応の束。
期待に応じて編まれた王像の集合体。
中心にあるのは人格ではなく、空洞だ。
王の口が再び開く。
だが今度は、誰の声ともつかぬ響きだった。




