⑧ 実験開始
神谷はざわめきを遮るように手を上げた。
「まだ終わっていない」
怒号も抗議も、その一言でわずかに止まる。
皆が次に何をするつもりなのか読めず、言葉を飲み込んだ。
神谷は各列の前に置かれた小さな札を指差す。
「それを開けろ」
貴族たちが顔を見合わせる。
記録官が戸惑いながら封を切り、神官長が震える指で紙を広げる。
やがて全員の手元で、ぱらぱらと同じ音が鳴った。
そこに記されていた文は、たった一行だった。
“王の幼少期の思い出は?”
場が静まる。
「……何のつもりだ」
騎士団長が眉をひそめる。
神谷は王から目を離さず答えた。
「簡単な確認だ」
「今、この場で。全員同時に陛下へ問いかけろ」
「同時に?」
「そうだ。思い浮かぶ“王らしい幼少期”を、そのまま求めろ」
王は玉座の上で笑みを保っていた。
だがその瞳だけが、わずかに細くなる。
神谷は鋭く命じた。
「やれ」
老宰相が最初に口を開いた。
「陛下。先王陛下と狩猟へ赴かれた折の話を」
神官長が重ねる。
「幼き日に初めて神前へ立たれた、あの祈祷の日を」
騎士団長が一歩前へ出る。
「剣術鍛錬に励まれた少年期の逸話を」
有力貴族の一人が慌てて続く。
「舞踏会で諸侯を魅了された初陣の夜を」
別の貴族が叫ぶ。
「学問に秀でておられた書庫時代を!」
侍従長が静かに加える。
「侍女方へ優しく声をかけられた頃のお話を」
一斉に、異なる王像が投げつけられる。
勇敢な王。
敬虔な王。
武の王。
社交の王。
知の王。
慈愛の王。
人々がそれぞれ胸の中に抱いてきた“理想の王の少年期”。
その期待が、同時に玉座へ殺到した。
王は口を開こうとした。
そして――止まった。
ほんの一瞬。
だが神谷は見逃さなかった。
この男が、沈黙した。
いついかなる問いにも自然に答え、
誰へ向けても最適な言葉を返し、
記憶すらその場で整えてきた存在が。
初めて、選べなかった。
玉座の間に冷たい気配が走る。
王の視線が左右へ揺れる。
老宰相、神官長、騎士団長、貴族たち。
誰の期待へ合わせるべきか、一瞬だけ定まらない。
神谷は確信する。
単一の過去など持っていない。
相手一人なら、その者が望む王になれる。
だが複数の理想を同時に要求されれば、矛盾する。
同時に複数の“王らしさ”を求められれば、完成できない。
王はゆっくりと口を開いた。
だが、その顔には初めて微かな綻びが浮かんでいた。




