⑩ 王の逆襲
王は、ゆっくりと立ち上がった。
誰も命じていないのに、ざわめきが止む。
兵士の槍先が下がり、貴族たちは口を閉ざし、神官長は祈りの言葉さえ忘れた。
ただ立っただけだ。
それだけで場の重心が変わる。
空気が、重くなる。
玉座の間そのものが、王の動作へ従って呼吸を止めたようだった。
先ほどまで綻んでいた表情は消えている。
怒りも焦りもない。
再び整えられた顔。
だが今度は“善き王”ではない。
もっと深い、得体の知れない静けさだった。
王は神谷を見下ろし、静かに言った。
「人は皆、役割を演じている」
低く、よく通る声。
壁にも天井にも染み込むような響きだった。
誰も反論できない。
それはあまりにも当然の事実だったからだ。
王は続ける。
「それの何が罪だ?」
場の多くが揺れた。
老宰相は目を伏せる。
彼もまた忠臣を演じてきた。
迷いがあろうと、疲れがあろうと、国の柱として振る舞い続けた。
騎士団長は歯を食いしばる。
彼も恐怖を見せぬ騎士を演じている。
部下の前で弱さを見せれば軍は崩れる。
神官長は震える手を隠した。
信仰に迷う日があっても、導く者として立たねばならない。
貴族たちは互いを見ない。
高潔を装い、血筋を装い、余裕を装ってきた自覚がある。
そして聖女。
神谷の脳裏に、質素な部屋と空白だらけの日記がよぎる。
彼女もまた笑顔を演じた。
祈る者を演じ、希望を演じ、沈黙を演じた。
世界を守るために。
王の声が追い打ちをかける。
「王は王を演じる」
「騎士は騎士を演じる」
「聖女は聖女を演じた」
一拍置き、その目が神谷へ向く。
「勇者もまた、勇者を演じている」
神谷の喉が詰まった。
否定できない。
異世界から召喚され、期待され、救済の象徴として見られた時から、自分もまた役目を着せられてきた。
剣を握り、不安を隠し、堂々と立つふりをしてきた。
“本物の勇者”であろうとしていた。
王は一歩、玉座の段を降りる。
その足音だけで、群衆が後ずさる。
「ならば私だけを責めるのは、なぜだ?」
静かな問いだった。
だが刃より鋭い。
神谷は返そうとして、言葉を失う。
これは詭弁ではない。
真理を含んでいる。
だから厄介だった。
人は皆、役割を演じる。
社会とはそういうものだ。
肩書き、責任、期待、仮面。
それらを纏って生きる。
なら王だけが偽物だと言い切れるのか。
王らしく振る舞い、国を回し、人々を安心させてきたなら、それは王ではないのか。
神谷の沈黙に、場が揺れる。
「勇者様が黙った……」
「もしや陛下が正しいのでは」
「確かに、誰しも……」
空気が戻り始める。
疑念が薄れ、納得が再び玉座へ集まりかける。
神谷は初めて、本能的な恐怖を覚えた。
この敵は力だけではない。
哲学で殴ってくる。
人間社会そのものを土台にして、自らを正当化してくる。
倒すには剣では足りない。
神谷は拳を握り、無理やり呼吸を整えた。
まだ、負けていない。




