⑩ 遺言の発見
神谷は、ゆっくりと聖女の傍らに膝をついた。
視線は、指先へと向けられている。
(何かを残そうとした形だ)
指はわずかに曲がり、床をなぞるように止まっている。
死の直前。
意識が途切れるその瞬間まで、何かを伝えようとしていた。
(なら、残っているはずだ)
神谷は床へと目を凝らす。
石の床は滑らかで、傷一つない。
――いや。
ほんのわずかに、違う部分がある。
光の反射が、わずかに歪んでいる。
神谷は手を伸ばし、その場所をなぞった。
指先に、かすかな引っかかり。
削られた跡。
「……これは」
思わず、声が漏れる。
近くにいた騎士が振り向く。
「どうした」
神谷は答えず、角度を変えて床を見る。
そして、ようやくそれが“形”として浮かび上がる。
――文字だ。
掠れ、途切れ、最後まで書ききれていない。
それでも、読める。
「お……う……」
神谷が低く読み上げた。
周囲の空気が、一瞬で変わる。
「何だと?」
騎士団長が一歩近づく。
神谷ははっきりと言った。
「“おう”と読めます」
沈黙。
次の瞬間、誰かが息を呑む音がした。
「王……?」
誰かの声が、震えながら漏れる。
その言葉が場に落ちた瞬間、空気が凍りついた。
全員の視線が、一斉に動く。
玉座の主へ。
王は、動かない。
ただ静かに立っている。
表情も、姿勢も変わらない。
だがその沈黙が、かえって異様だった。
騎士団長が叫ぶ。
「馬鹿な!」
怒声が聖堂に響く。
「あり得ん! 陛下が……そんなことをするはずがない!」
否定は、強かった。
だがそれは同時に、“可能性”が浮かんでしまったことの裏返しでもある。
ざわめきが一気に広がる。
宰相が目を細め、魔導士の不在が妙に際立つ。
誰もが、言葉を選べない。
神谷だけが、動かなかった。
視線は床の文字に向けられたまま。
(……違う)
その一言が、静かに浮かぶ。
この文字は、単純すぎる。
あまりにも、直接的だ。
(これが本当に意味するものは――)
まだ、分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
この一文字は、ただの“告発”ではない。
何かを伝えようとして、途中で途切れたものだ。
神谷はゆっくりと顔を上げた。
空気は完全に変わっていた。
疑念が、初めてこの場に生まれている。
それが誰に向いているのかは、まだ曖昧なままだったが――
確実に、“何か”が崩れ始めていた。




