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遊歩道から砂浜に入ったところで、早速、靴を脱ぐ。
足の指の間に砂が侵入して来る感じが心地良い。
いつも靴の中で、靴下の中でひとかたまりの扱いをされているけれど、足の指って、ちゃんと5本あったんだな、と感じることから藍は一日をスタートさせる。
さすがに冬場は靴を履いて歩いたが、やはり砂浜を歩くのは裸足に限る。
たまたま移動手段を得たけど、自分も地球に生えた生き物だと実感する。
海は、毎日違う顔をして、同じようにそこにあって。
「日常」というのは、何も変わらない毎日のことではなく、日々変わっていく自分達を、変わらずに受け止めてくれる毎日を言うのだろうな・・・、などと自分の考えが、とりとめもなく、収集つかなくなっていることに気付いて、少し一人笑いしたりする。
海しか見ていない。
それは、こんなにも藍を自由にする。
擦れ違うランナーが、縹だと気付いたのと、相手が藍に気付いたのは、ほぼ同時だった。
多分、今までも何度も擦れ違っていたのだろう。朝の海には、だいたい同じ人が同じ時間帯にいるものだから。
「ぶらんこに うす青き風 見ておりぬ 風と呼ばねば 見えぬ何かを」
俵万知の短歌を不意に思い出していた。
見えないものに、名前が付く。名前を知ると、急にそれが実体を帯びる。
ぐるんと音がしそうな急停止をして、縹は深々と頭を下げた。
「おはようございます。この間は、大変失礼をしてしまい、申し訳ない」
「失礼」とは、閉店後のプライベートな時間に闖入してしまったことか、それとも・・・
「多分、君たちの地雷的な所に不躾に触れてしまったと思っていて」
それは気付いたのか、と思う間にも縹は言葉を続ける。藍はまだ一言も話せずにいる。
「実は僕、以前から君に会いたいと思っていて。その、お店のコンセプトとか細部のこだわりとか、あなたがメインでやられていたと聞いていて。私の会社、いわゆるコンサル系なんだけれども、今後店舗の立ち上げとかに業務拡大しようと思っていて。で、あの日は手伝いに来るって聞いていたから、是非伺いたかったんだけど、ちょっとバタバタして遅くなってしまって。閉店後に申し訳ないかなとも思ったんだけど、思い切って。でも、まさか女性だとは思ってなくて。ちょっと驚いてしまって。恋バナなんかで少し距離が縮まればと思ったんだけど。・・・多分ダメなやつでしたね」
黙っているのは怒っているからと明らかに勘違いしている視線を向けらることが、いたたまれず、
「ごめんなさい。ツッコミどころが多過ぎて。どこからツッコんでいいか、そもそも私があなたにツッコむ義理があるのか考えてました」
「是非、ツッコんでください」
と、また頭を下げる。なんというか、多分根っからの善人なのだろう。自分の過失を取り繕う気は微塵もなさそうだ。
「まず、仕事の興味とその人の性別って全く無関係じゃないですか?いや、これ私があなたと仕事したいとかでは全然なく」
「はい」
「で、そこに男と女がいたら恋愛しか関係性を考えられないのは、発想がだいぶ貧困です」
「はい」
「それに、恋愛なんてセンシティブな話、距離が縮まるんじゃなくて、土足で踏み込む行為です」
「はい」
「ツッコミは以上です」
「いや、まだ聞きます」
「いえ。本当に以上です。私、これから仕事なんで。縹さんもランニング中ですよね。汗冷えますよ」
思い出したように公園の時計を見る。浜をちょうど三等分する位置に、大きな時計が設置されているのだが、自分の現在地を見失ったようにキョロキョロする仕草が、なんともコミカルで少し可哀想になる。自身の腕に腕時計もしているのに。
「縹さん、アセクシュアルって解ります?そもそも恋愛感情が無いカテゴリです。私、アセクシュアルなので紺とも青とも、その他誰とも恋愛関係にはなりません」
「ごめんなさい」
縹は、はっとして、カミングアウトさせたことを詫びる。
「お店には、これからも行ってあげてください。縹さんがSNSに上げてくれたお陰で、知名度上がったって、二人喜んでたんで」
帰り道のコンビニでカフェラテを買って飲みながら歩いた。コンビニコーヒーは随分久しぶりだ。
「普通に美味しいじゃん」
忍者道を一人で歩きながら、小さい声でつぶやく。
海辺の町らしく、各戸が急な坂道や階段を登った高台に建っているため、武骨に積まれた高い塀が忍者道の両側にそそり立ち、道は実際以上に狭く感じる。この道を通って帰る度に、「大丈夫。外で起きたことは何も連れて帰ってきてない」と感じる。
そういえば、紺と青以外に、自分のセクシュアリティをカミングアウトしたのは初めてだ。
以前レンと「チルスポット」の条件について語り合ったことがあった。
1 圧倒的な自然もしくは神社仏閣
2 長時間いられること(かつ、すぐ帰っても許されること)
3 何をしても(もしくは何もしていなくても)変じゃないこと
4 個体識別されない心理的安全性
そうか。いつでも海が見られて、どこで、ぼーっとしていても「あら藍ちゃん」と言われない、ここは、「だいぶチルフルな町なんだな」と納得しながら、カフェラテの最後の一口を啜った。
「と、いうわけで、縹氏には、私がアセクだってことは話したから」
カウンターに頬杖をついて藍が話すのを、紺と青は開店準備をしながら聞いていた。
藍は仕事が休みの日には、いつもより少し朝寝をし、海辺を散歩した足でBlue Gradationに来る。開店準備を手伝う日もあれば、奥の席で静かに本を読んでいる日もあるし、こうして紺と青を相手におしゃべりをする日もある。
不思議と藍は、その場に馴染む。何をしていても、何もしていなくても、この空間に違和感なく馴染んで、朝ごはんを食べ、開店前か、開店と同時にか、日によってはお昼ぐらいまでいて、なんなら店の手伝いをしたり―つまり、その時々で適当なタイミングで帰っていく。帰っていくのか、その後どこかへ出掛けているのか、紺は知らない。
「なに食べる?」
たぶん藍は食にあまり興味が無い。「あ。ごはん食べるの忘れてた」という、紺の辞書には無い言葉をよく発する。 だから、暇な店休日には昼ご飯を作りに行くし、朝店に来たときにはなるべくがっつりメニューを食べさせる。
「グラタン食べたい」
「メニューにあるもの頼めよ」
すかさず、青が文句を言う。
「紺のグラタンが食べたいんだもん」
仲の良い兄妹喧嘩みたいだなと思いながら、全部乗せのピザトーストを作ってやる。
「グラタンはまた今度作るから」
ぷぅっとむくれながらも、実に美味しそうにパクつく。食に興味がないだけで、出されたらなんでも美味そうに食べる。
だから紺はせっせと飯を作る。
「紺、俺もピザトースト食いたい」
「はい。はい」
この二人が自分の作るものを美味そうに食べている限り、自分は大丈夫だと、いつも思う。




