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海の公園を端まで行って、海に背を向けて歩き出すと、タイムスリップしたみたいな昭和レトロな町並みが現れる。紺は藍の家に向かうこの道を通る度、「忍者道」という言葉は全国区で市民権を得ている言葉なのだろうか…と思う。
「にんじゃどう」ではなく、「にんじゃみち」。機会があったら誰かに聞いてみようと思うのに、いつも忘れてしまう。そして、藍の家に向かう度に「あ。また確かめるのを忘れてたな」と思うのだ。
3人が通った幼稚園には、オリジナルな用語が結構あった。
例えば「こんにちわ」。挨拶の「こんにちは」とは別に何かと何かを合わせることを「こんにちわ、する」という言い方をした。「粘土の箱と蓋は、こんにちわしてあげてね」とか、服を畳むときには「お袖とお袖を、こんにちわするよ」のように。
長ズボンの裾が長くて床についてしまう状況は「でんちゅうでござる」。恐らく語源は忠臣蔵の袴の裾を引き摺る有名なシーン、「殿中でござるぞ!」なのだろうが、当然そんなものを知らない子どもに向かって、先生達は「紺くん、でんちゅうでござるなってるから、ズボンまくろうか」と、裾を折り返してくれる。「ズボンの裾が長くて床に擦っちゃってる」と長々解説するより、ずっとスッキリしっくりしている、と今だに紺は思う。
確か、「雨が降った後のアスファルトから立ち上る香り」を表す言葉がどこかの国にあった。それと同じ。説明すると長くなるが、それを端的に表す言葉が出来る素地があるくらい、人々の中で共有されている現象。
「みんな、でんちゅうでござるだなぁ」中学生になった時、誰もが大きめの制服を着ていて、そう言ったら、怪訝な顔をされて逆に驚いた。一般的な言い回しではないらしいことと、こんな便利な言葉が流通していないことの両方に。
「忍者道」というのは、住宅と住宅の間の車が通れない細い道のことだ。車道の横に添えられた歩道ではなく、そこに住む人が通ることだけを想定して作られた細い道。
幼稚園のお散歩で街を歩くと、数か所そんな場所があって、住民への配慮か先生が必ず「忍者道だから静かにね。しー」と声を掛けた。車が来ない安心感と、息をひそめて忍び足で歩く友達の姿が面白くて、いつも「忍者道」にはワクワクした。
藍の家に向かう道には3か所「忍者道」があって、一つは急な階段だ。こんな奥まった所に隠れるように建つ、場違いにファンシーなアパートを選んだ辺り、この引っ越しは藍と青にとっては「避難」だったのだなと思う。
あの二人は、昔からなんだかとてもよく似ている。
藍の部屋の鍵は、紺も青も持っている。在宅でコールセンターの仕事をしているので、間違って電話中にインターフォンを鳴らすとまずいからだ。
昼休みを目掛けて来たが、部屋に入ると藍は素晴らしいスピードでキーボードを叩いていた。「ごめん。チャット。もうすぐ終わる」と、顔だけこちらへ向けて言いながら、指で接客を続ける。
問い合わせは電話とチャットとメールで来るらしい。休憩時間は決まっているが、接客が長引けば定刻からピタリと昼休みに入ることは難しい。
慣れている紺は、キッチンでお昼ご飯を温めはじめた。
コールセンターに転職すると藍が言った時、青は酷く反対した。
「そんな一日中、人の苦情を聞くような仕事は心に良くない」
多分、青なら耐えられないのだろう。青は無意識に自分と藍が似ていることに気付いていて、自分が耐えられないことは藍も耐えられないと思っているのだ。そして、藍が耐えられないことを我慢するのは自分も辛いのだ。「双子みたいだな」と紺は思う。
いつも紺と藍にヤキモチを焼くくせに、本当は誰よりも藍と深いところで繋がっていて、大切にしている。
そのことを、1ミリも妬ましく感じない自分は、やはり何かが欠落しているのかもしれないし、本当に3兄妹の長男のようなポジションなのかもしれない。
どちらなのか、紺は自分でも、よく分からない。
「大丈夫だった?」
紺がデリバリした昼ご飯をつつきながら藍が尋ねた。
心から美味しそうな顔だから、心配しているように見えないが、藍はいつでも青を心配している。
「うん。店のコンセプト変わっちゃうから敢えて公表していくスタンスは取らないけど、青が言いたい相手には、俺にいちいち断らなくても、俺と付き合ってること、言っていいよって話した。今日は動物園に行ってる」
いつも人の輪の中に居る青だが、動物園だけは一人で行く。「人のペースで動物園を周るとか信じられない」そうだ。
「そっか。じゃあ大丈夫だね。」
藍の部屋の窓からは、10分おきに走るコミュニティバスが見える。ふたつ目の忍者道を抜けたところにある道を規則正しくこのバスが通るのだが、バス通りとはとても見えない道で、何故この道が運行ルートなのか、いつも不思議に感じる。
「こんな寂れた景色なのに、バスがさ、現実と繋がってるよって、しつこいくらい主張するんだよね」
ぼんやりと藍が言った。
「私のことも、自由に使っていいからね。便宜上、どっちかの彼女ってことにしても誰も困らないし、私がアセクってことも、全然言っていいから。ふたりに負荷が掛からないのが一番」
この町で商売をする紺と青とは違って、一日中自分の部屋にいて、通勤も無くて、気が向いたら海辺を歩くだけの生活をしている藍は、今、誰とも繋がっていない。
そのことが藍を、ひどく穏やかにさせていて、そして捨て鉢にもさせていると思う。
そんな藍を心配する青を、藍が心配する。「どんなスパイラルだよ」と思うが、紺はどちらのことも心配していない。
多分今はそんな時間が必要なんだろうと思うだけだ。
「蛹ってさ、一回あの中で体どろどろに溶けるらしいよ」
「なんの話?」と気味悪そうな顔をして、藍は咀嚼を続ける。
食べれて、寝れれば大丈夫。




