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「うつつよに、ようこそ」
レンの恋が終わって、藍の元に戻ることを、二人の間では「うつつ世に戻る」という言い方をした。
レンがその時、うつつ世に戻ってみると、藍は会社を辞め、在宅で「お客様窓口」の仕事を始めていた。
「藍~、ごめんよぉ。私がついてれば、小野寺ナニガシの恋心も見極めてあげられたのに。藍、本当にそうゆう好意に対するアンテナ鈍いからなぁ」
恋が終わる度に引っ越しをするレンの新しい部屋の最初の来訪者は、大抵いつも藍だ。
引越しの手伝いをして、そのまま夜通し終わった恋の経緯を物語るのが、もはやワンセット。自分は恋をしないくせに、『別冊少女マーガレット』を未だに読み続けている藍は、レンの恋バナを、まるで異国の冒険譚のように新鮮に聞いてくれるので、レンにとっては藍に全てを物語ることで綺麗に幕を閉じる大切な儀式のようになっている。
「いや。今回は本当にバドミントンのペアとしての良い関係だと思ってたんだよ」
「それ、いつもじゃん。サークルの幹事を一緒にやった、何君だっけ?あいつ。あと、4年生で一緒に研究した一条?九条?」
「五条君ね」
「そう、それ。高校生の時は文化祭実行委員だっけ?そいつは直接知らんけど」
「マタニティーバッジみたいのレン作ってよ『注!恋愛対象外』」
自分の関わる恋バナは本当に苦手らしい藍は雑に話を切り上げようとするが、女性も男性も恋愛対象であるレンには、藍の側にいた彼らが藍に惹かれてしまう気持ちが解らなくもなかった。
身長の割に幅のない藍の足は、レンの小さな手にすっぽりと収まった。
最初に引っ越しの手伝いをしてもらった後、恋の終わりの心細さもあり、引き留める口実として藍のペディキュアを塗っていた。その時に「藍の距離感はヤバい」と思った。
レンの周りには女性を恋愛対象とする女性が多くいた。同性を恋愛対象とする場合、マジョリティの異性愛者のように、街角で偶然出会って恋に落ちるドラマのような事は起こらない。たまたま出会った相手が、更にたまたま自分と同じ性的志向であるなんて奇跡はまず無いからだ。
だから自然と同性愛者同士のコミュニティが発達し、同じカテゴリの人同士という安心圏内で相手を探すことになる。うっかりノンケ=女性を恋愛対象としない女性を好きになってしまい、気持ち悪がられたり、嫌われたりした苦い経験は、同性愛者なら誰しも一度や二度はある。
しかし、女子というのは遍く距離が近い。女子同士が腕を組んだり、手を繋いだり、という事を日常的に行う。時にバストのサイズを確認するために触り合ったり、ツーショットのために頬ずりしたりも平気でする。
「ノンケにフトコロやられた」と、レンの周りのレズビアン界隈で表現されるのだが、恋愛対象である同性から、思い掛けない距離の詰め方をされて、つまり「フトコロに入られて」、恋に堕ちてしまう、つまり「心を奪われてしまう」という事が起きてしまう。
相手がノンケの恋は成就しないし、絶対に相手に知られてはいけない。同性愛者にとって最も避けたいシチュエーションだ。
藍はベタベタとボディタッチをするタイプではないが、一旦心を許した相手への「心の距離感」が近い。
バイセクシャルであることを公言しているレンに対して、同級生の女子達はうっすらと距離をとる。「女が恋愛対象だからって、見境なく誰でも狙ってると思うなよ」と、不愉快になることもあるが、一般的に女性が男性にとる距離感と、それはきっと同種であり、正しい反応なのかもしれない。
恋愛対象を堕とすための「あざとテク」としてボディタッチが必ず上げられるように、自然な触れ合いは相手を意識するきっかけになり易い。だからマジョリティである彼らは異性と適切に距離をとる。そういえばレズビアン同士でもカップルでない限り、割と節度を持った距離感がある。
すっぽりとレンの手の中に納まった藍の足は、どこまでも無防備で、これはとことん許し合った深い関係か、全くの対象外でないと起こらない距離感だ。
もちろん、恋愛感情を持たない藍にとってそれは後者に違いないのだが、勘違いをしてしまいそうになる。そして、異性も同性も恋愛対象ではない藍にとって、恐らくその距離感は不変だ。誰にでも愛想が良い訳ではない藍に、こうしてフトコロに入られたなら、きっと小野寺ナニガシも何条君だかも勘違いをしてしまうだろう、と同情を禁じ得ない。
「今度ばかりは、形だけでも一回付き合って別れる方が良いかもと、ちょっと腹をくくりかけたよ」
もはや恒例行事のように、レンにベディキュアを塗られながら、藍が遠くを見てこぼした。
「でも、それが申し訳ないと思う程度には、小野寺ナニガシのこと、好きだったんだね」
「そうだね。一緒に居心地はとっても良い人だった。けど、申し訳ないってよりは、裏切られた感覚に近いかな。凄くいい関係だと思ってたのに、そんなヨコシマな気持ちだったなんて…みたいな」
「ヨコシマって」
「でもさ、私が思うに、愛とか恋とかじゃなくて、その居心地の良さだけで結婚してる人って、結構いるんじゃないかな。それであれば、結構アリだったのかも」
「いや、藍が思う以上に世の中は愛だの恋だので満ち溢れていると思うよ。なんなら、恋愛至上主義がマジョリティと見るね」
「ひぃ。まぁ、そうじゃなきゃ娘にレンとかアイとか名付けないか。少なくとも私は恋愛のアイじゃなくて藍色のアイで良かったよ。藍色って色、結構好きだし、私」
実は藍と出会ってから付き合った彼氏と、レンは藍染め体験デートに行ったことがある。
藍甕は覗くと深い夜の闇の色だけれど、その液を掬ってみると思い掛けないほど淡い黄緑色だった。持ち込んだハンカチは一度浸しただけでは、いわゆる「藍色」にはならず、空気に触れさせ酸化させることで色づく。
スタッフさんに、「15秒つけて」「はい出して~」「次30秒漬けますよ」と指示されるままに、浸したり、広げたりを繰り返した。
これじゃあ、自分が染めているとは言えないのでは…と、少し不本意な気もしたが、その日の気温や湿度によるその感覚は、熟練の職人しか体得できないものなのだろう。
ひとくちに「藍色」と言っても「藍四十八色」と言われるほど、その色幅は広く、藍が好きだと言う「藍色」と、その時に染め上げたあの藍色が同じかどうかは解らない。
ハンカチは、その恋人とは別れ、引っ越しを繰り返しても、引き出しの中に必ずある、そのハンカチを取り出して、答え合わせをしてみる気には、どうしてもなれないのだった。




