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3日くらい眠ったような気がしたのに、藍が目覚めてみると「ヤバい。外が白んできた」と慌ててベッドに入ってから2時間も経っていなかった。
藍の部屋の掃き出し窓には、青、緑、黄、ピンクの4枚のレースのカーテンがかかっている。引き違いの窓に合わせて2枚で済むところを、半分の幅の4枚のカーテンにこだわって、ネットでオーダーした。
真南の窓はほぼ一日中、充分な陽射しを受け、ペールトーンの4色のカーテン越しの部屋は、むしろ外よりも明るく感じられる。窓を開けると、光を浴びた4色が、ふあんふあんと風をはらんで、とても幸せな気持ちになる。
それが好きで、今のところ、窓にはレースのカーテンしかかけていない。それで朝は自然に目が覚めるようになった。
布団から手だけを出して窓を開ける。カーテンが、ふあんとなって、ぴーひょろろろろろとトンビの鳴き声が聞こえる。ぴっかぴかの朝だ。
部屋を真っ暗にしないと眠れないレンは、とっくに起きて散歩にでも出てしまったのかもしれない。夕べも、「遮光カーテン買いなよ」と、言っていたっけ。
毎日浜辺を散歩するようになって知ったことの一つだが、波や風や光と同じように、匂いも海は毎日違う。
今朝の海は、やけに海藻の匂いがして、レンが見当たらないことに少しほっとして、脱いだビーチサンダルをお尻の下に敷いて腰を下ろした。せっかくならレンには完全無欠の海を見て、海の側で暮らすって確かに素敵だなと、思ってもらいたい。藍自身はこの匂いが嫌いではないけれど、もしかしたらレンは「磯臭い」と言うかもしれない。
「起きたよ。今どこ?」とメッセージを送れば良いところを、散歩と言えば浜辺だろうと、当てずっぽうで海まできてしまって、レンが見当たらないので途方に暮れて、海を眺めた。
2時間睡眠の頭は、やはり動きが鈍く、さてどうしようと考える体制が整わず、ただ海のキラキラの一筋一筋を追う。
「ああ、これ、さざなみって言うのか、この細かいキラキラ」
考えがひとところに集中せず、つい口に出す。
「おはようございます。」
ざっざっざ、と規則的な足音が近づいてきたな…と、ゆるく認識すると同時くらいに声を掛けられて、驚いて振り返ると、縹がジョギングの足を止めていた。
「個体認識されない心理的安全性」
また口に出ていて、きちんと聞き取れなかった縹が「え?」と聞き返した。
「いえ。縹さんって、何かしてる人ですよね?スポーツ」
足をとられる浜をジョギングするのはガチ勢だ。脈絡はないのに頭が回らないので、思いついた拍子に聞いてしまう。
「紺もたまに走るけど、ニワカは遊歩道を走るから」
「ああ。僕はビーチバレー」
浜の隅にいくつか常設されているバレーコートを指差しながら言って、自分も靴を脱いでその上に座った。
「この間は、ごめんなさい」
座り込まれた事にも驚いたが、謝られた事に、もっと驚いて藍は聞き返した。
「え。もう謝罪はされましたけど」
「いや、その時に、カミングアウトさせてしまったこと、凄く申し訳ないと思っていて」
頭を下げて、青と紺と昨夜話した内容を、律義に説明する縹を遮った。
「や。ちょっと待って。えーと、たぶんなんですけど、性的志向を打ち明ける、いわゆるカミングアウトとは違うかもです。私の場合」
その日、その話をするまで、何を話していたか、藍は覚えていない。
タイミングを見計らって、青と紺に自分が「アセクシュアル」であることを報告しようと思っていた。「カミングアウト」ではない。ふたりとも、藍がその手の事が苦手なことは、とうに知っているから。
ただ、それに名前があること、そういうジャンルがあるという事を、早くふたりに知らせたかった。
だから、タイミングを見計らってはいたけれど、それを見極められたかどうかは甚だ疑問だし、今にして思えば多分唐突だったと思う。
「人口の10%程度はLGBTQって自覚してるらしいよ」
「ん?なに?エル・・・?」
「女性が好きな女性がレズ、男性が好きな男性がゲイ、男女とも恋愛対象なのがバイ、自分の性自認が体の性と違うのがトランス、で、そもそも自分の性が良く解らないのがクエスチョンズ」
藍は、仕入れたばかりの知識を得意げに披露した。
早くその先の話がしたかったのに、紺が
「おねぇは?」
と、しょうもない質問をして会話が滞る。
「女の恰好したいだけなら女装家だし、心が女ならトランス」
と、つっけんどんに答えた。それでも、塩対応を気にする風もなく
「ホモは?」
と聞いてくる。唐突な話題に律義に相槌しただけかもしれない。
「ホモはゲイの蔑称。男性に恋をする男性はゲイ」
「心が女じゃなくても、男に恋をするのか・・・」
「そう。大学の友達は、超女の子だけど、『元カノ』がいるよ。普通に女の子に恋をするんだって」
気が急いて、今度は割り込ませないように、畳みかけるように続けた。
「でね、1%は、そもそも恋愛をしない『アセクシュアル』って人が居るんだって。私、これだよね。割といるみたい。西小だけでも、10人はいた計算じゃん」
3人が通った小学校は結構なマンモス校で、校内の至る所に「千人パワー!」と、景気の良いポスターが貼られていた。
青の顔の表情筋が、全て凍り付いたようになっていくことに、途中で気付いた。「そういえば、小さい頃から紺が好きだった青は、ゲイってジャンルになるのか」自分のことに気を取られて、そのことに思い至らなかった。吸った空気が、全て胸の奥のブラックホールに吸い込まれていくような、自分が薄くなっていくような、気が遠くなる感覚がした。
その瞬間、青が、とても何でもない風を精一杯装って言った。
「それで言ったら俺ゲイだわ」
これは「告白」だ、と藍は直観した。が、たぶん紺には、これでは通じない。
「えー、俺だけ『その他大勢』かよ。つまんな」
ここで「げ!」とか「マジかよ」みたいな反応をしないのが、紺の良さではある。でも、紺のマジョリティ宣言は青の失恋を意味するのだ。
藍のマイノリティ宣言は、謂わば全世界を「振る」のに対し、青のマイノリティ宣言は世界の大多数から「振られる」ことだ。拒絶するのと、されるのでは、その重みが違う。
現に青は、大人になった後、アウティングに遭い、会社を辞めている。それだけのダメージがあることなのだ。
「私の場合、予め伝えるのは、予防線張ることにもなるので。言っていくスタイルにしようと思っていて。最近」
「あ、なるほど。立ち入り禁止。まぜるな危険。恋愛対象としては見ないでね、ってことですね」
縹は独特の理解の仕方をした。が、概ね、そういうことだ。
きっと、青は。青にとってのカミングアウトは、相当にハードルが高く、痛みを伴う。だからきっと藍も同じように、そのことで傷ついたと思ったのだ。
「もちろん、だからって、今後、誰も彼も気軽にカミングアウトさせて良いとは言わないですけど、私は、大丈夫だったので気にしないでください」
「そうか。僕は恋をする前に、予め振られたってことか」
縹は、清々しそうに笑った。
あの日、失恋した青も、こんな顔をしていた。妙にすっきりと清々しい顔だった。藍には解らないけれど、恋はキラキラふあふあした幸せな感情だけではないのだろう。失恋というカタチであっても、その重圧から解放されると、人はこんなにも清々しい顔になるのだ。




