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数週間に一度くらい、「少し体を動かそう」という気分になり、紺は海の公園をジョギングする。そのためのジャージも持っている。
芝生と木立の間を縫うような遊歩道は、時折海風が吹き抜けて、紺のような三日坊主ランナーに優しい。なまった体が少しずつほぐれて、足が前へスッスッと出るようになってくると、自分の芯が戻ってきたような気分になる。
昨夜、藍たちが店を去るのと入れ違うように縹氏が来店した。
他の客が引けるまで、一人で静かにコーヒーを飲んで、自分が最後の客になったのを見届けてから、紺と青に詫びた。
「先日は申し訳なかった」
深々と頭を下げられるほどのことは、実はされていない。
「むしろ、変な空気にしてすみませんでした。また来てくれて嬉しいです」
青が黙っていたので紺が応えた。
「あのぅ、俺らはいいんで、藍にだけは謝って欲しいかもです。もし次に会ったら。縹さんは、店の記念日に駆けつけてくれて、店的にそれは嬉しいことで。そこら辺にマイノリティがいるかもって気にしながら生きろって言うのもアレだし。でも、藍は見ず知らずの人にセクシャリティをわざわざカミングアウトする必要ないはずなんで」
縹さんは、口をきゅっと結んで
「うん。本当に」
と、それだけ言った。
たぶん、いい人なんだと思ってしまった。
お祝いに駆けつけて、場を盛り上げようとした。
その方法を間違えたことを真摯に受け止めて、うんと年下の自分たちに、しっかり謝罪する。
「でも俺たちからも、すみません。藍に怒られるとキツイっしょ。あいつの言葉は刃なんで」
青が、ちゃかしてくれて良かった。
自分たちは、何に傷ついて、何に怒り、何を守りたかったんだろう。
6キロほどのコースを走り終えて、Blue Gradationに立ち寄ると、店休日の札の下がった扉の窓からレンが店の中を覗いていた。
藍の友達ではあるが、自分の友達ではない。この微妙な距離感が得意でない紺が、そっと立ち去ろうとすると、視線を感じたのかレンが振り向いた。
元々くっきりとした目が三重か四重くらいになっていて、思いがけず
「良かったら、どうぞ。コーヒー淹れますよ」
と、店に迎え入れてしまった。
「お客さん、いないから、めっちゃ見て回ってもいい?」
カウンターで準備をする紺に声を掛けて、レンが深海魚のように店内を歩き回る。
「おもしろい。ブルーのレンジャーばっかり良くこんなに集めたね」
昨日座ったのは違う椅子にも座ってみたりしている。
「明るくなってから、藍は寝たんだけど、私は、なんか目が冴えちゃって」
蝶は前足に味覚があるという。レンが気になる壁やテーブルに触れながら店内を歩く様を見ながら、紺は、そんなことを思い出していた。
「紺くんて、思ってることの半分も口にしないでしょ」
あ、ごめんなさい、と口にする前にレンが言葉を続ける。
「でもさ、全然それが心地悪くないよね。ひとりで、いくらでもしゃべれちゃう」
「藍はノンバイナリーかもねって、言っちゃって」
「なんか、男性とか女性とかいう括りが、しっくりこなささそうだったから」
「でも、そんなの他人に宣告されることじゃないんだよね」
「余計なこと言ったなぁと思って」
「ちょっと自己嫌悪」
店のテーブルや椅子は同じ塗装をしているが、一つ一つ違うので、それらに触れながら歩くレンの手の動きは気まぐれで、本当に蝶がひらひらと迷い込んだようだった。
「それで眠れなかったの?」
紺が初めての相槌を入れたのを合図のように、レンはカウンターに腰掛けた。
コーヒーの香りが店内に沁みていく。観葉植物に水を遣るように、紺は休みの日も一日に一回は店でコーヒーを淹れて、その香りで満たしたいのだ。
「アセクシュアルって言った時もそう。大学生になりたてって、若さはちきれてて、みんな恋を探してるじゃない?受験も終わって。さあ!って感じで」
紺は静かに頷いた。あの解き放たれた野獣の群れみたいな空気に、どうしても馴染めなかったことも大学を辞めた一因だったかもしれない。
「そんな中で、凄く居心地悪そうにしていたから、藍。こっちの人間かなって思ってね。あ、こっちって、私バイなんだけど」
世の中のマイノリティの人々が、こんな風に軽やかにカミングアウト出来たらいいのに、と紺は思った。
さっき、レンが触って少し角度が変わった二頭身レンジャーの一体と、目が合った。「これは、何レンジャーだろう」レンジャーものにハマらなかった紺には良く解らず、でもコレクターが居るくらいなら、もしかしたら周年記念で気軽に貰って良い金額のものではなかったかもしれないと、急に心配になった。
「私ね、人より早く目覚めた自覚あって。その時点で男1人、女2人と付き合った経験あったのね。でも、自覚したてって、かなりキツいの知ってたから。なんならコミュニティってゆうか、同好の士みたいな、仲間も沢山いるから、苦しまなくていいよ。こっちおいでよ。みたいな感じで声かけたんだよね」
レンは丁寧に両手でマグカップを持ち上げて、コーヒーをひと口飲んだ。
「自覚したてってキツいの?」
むしろ、その頃の青を思い出して紺が聞くと、「そこ?」とレンが笑った。
「キツいよ。私たちは、小さい頃から恋愛は男女でするものだって、かなり強固に刷り込まれて育ってきてるから。そもそもロールモデルである親が、異性愛者であったから、自分がいるんだしね。自分はおかしいんじゃないか、病気かもしれない、自然の摂理に反している、変態なのかって」
レンがそっとコーヒーカップを置いて、きちんと準備するみたいに、一つ息を吸った。
「みんなと同じじゃないことって、恐怖じゃない」
ある年頃まで、「みんなと同じじゃないこと」は、確かに自分の存在を脅かすほどに恐怖だ。「自分は他のみんなとは違う」と認めて欲しいのに、決定的に「みんなと同じじゃないこと」を思い知るのは、怖い。
「今になったら、背が高いとか低いとか、髪の色とか、ほくろとか、みんなが何かしらで、人と違うことに苦しんできたんだろうなって、思えるけど。あの頃は、自分の違いは、みんなと同じように異性だけを好きにならないっていう違いは、許されない、ヤバいことなんじゃないかって思ってしまったんだよね。私の周りには、実際自殺未遂した人もいるよ。今は、生き延びてハッピーな人生おくってるけど」
紺は、亡くなったかつての隣人を思い出していた。彼は、叶わぬ恋に絶望して命を絶ったんだろうか。それとも。
「とにかく。でもやっぱりアセクシュアルだって、私が宣告することではないんだよ」
「でも、それで藍は救われたよ」
そして、たぶん青も。「思ってることの半分も口にしない」と言われた紺だが、これは、どうしても口に出して伝えたかった。
世界から疎外されているみたいに孤独だったふたりは、自分を孤独にしていたそれは、名前が付くほどザラにあることで。そこらじゅうに転がっていて。世界の秩序の片隅に、ちゃんと織り込み済だと知って、
「とっても、ほっとした、みたいだった」




