第96話 宿題の代償
二学期が始まった。
久しぶりの学校、久しぶりの友人たち。
本来なら再会を喜び合う感動的な一日になるはずだったが、俺は放課後、死んだ魚のような目で机に向かっていた。
「……だから、あれほど夏休み中に終わらせなさいと言ったでしょう?」
エレノア先生が呆れた声で言う。
場所は先生の研究室。
俺の目の前には、手つかずの「化学」の課題プリントが山積みになっていた。
「いやぁ、物理とかは『感覚』で終わったんですけど……化学だけはどうしても……」
俺はシャープペンを握りしめて涙目になった。
原子記号、分子結合、化学反応式。
魔法のイメージでどうにかなる物理法則と違って、こいつらは人間が定めた「記号」の暗記だ。感覚派の俺には天敵すぎる。
『ふあぁ……平和だねぇ』
そんな俺の横で、優雅にあくびをしている男がいた。
ソファを陣取り、くつろいでいるツクヨミだ。
「なぁツクヨミ。お前、精霊たちとは違うんだよな?
神様ならさ、人間の学問とかも全知全能な感じで分かったりしない?」
俺はすがるような目で見つめた。
しかし、ツクヨミは興味なさそうに鼻を鳴らした。
『分からん』
「即答かよ」
『そもそも「水素」だの「酸素」だの、君たちが勝手につけた名前だろう?
僕は物質の本質は見えているが、人間が決めたラベリングなんて知らんよ』
「……使えない」
俺はガクリと項垂れた。
結局、地道に解くしかないのか。
『それよりヒロ。喉が渇いた』
「お前なぁ……」
『あの夏休みに食べた、黒いスイカ。あれは美味かったなぁ……』
ツクヨミが遠い目をする。
すると、デスクで書類仕事をしていた先生がピクリと反応した。
「……スイカ? 黒いスイカって、まさか『でんすけすいか』?」
「え、なんで分かるんですか。まぁまだ残ってますけど」
「私、今年の夏まだ食べてないのよね……」
先生がチラリとこちらを見た。
その目は明らかに「寄越せ」と語っていた。
なんて卑しい…。
俺は苦笑いしながら、空間保存しておいたカット済みのスイカを取り出した。
「どうぞ。補習に付き合ってもらってるお礼です」
「気が利くじゃない! いただきまーす!」
先生は満面の笑みでスイカに齧り付いた。
シャクッ、といい音が響く。
「んんっ! 甘い! シャリシャリ!
……ふぅ、これで生き返ったわ」
先生が機嫌を直したところで、ツクヨミが口を開いた。
『そういえばエレノア。
さっき話した「太陽神のエネルギー搾取」の件だが、さらに詳しく話すと――』
「ええ、ええ。
つまり太陽の核と神格は別物で、彼らはその上にシステムを被せているだけ……。
そして月は地球由来だから、あなたが力を行使する正当性があるということね?」
『その通り。理解が早くて助かるよ』
二人はスイカを食べながら、夏休みに俺たちが話した内容の答え合わせ(という名の悪口大会)で盛り上がり始めた。
俺はそれを横目に見ながらシャープペンを走らせる。
(……なんか見たな、この話)
まあ、先生も納得してツクヨミを受け入れてくれたみたいだし、いいか。
一通りスイカ休憩を終えると、再び地獄の課題タイムが始まった。
「うう……計算が合わない……。モル計算ってなんだよ……」
俺が頭を抱えていると、ツクヨミが横からプリントを覗き込んできた。
『……ふん。人間は面白いな』
「なんだよ」
『そんな記号遊びに必死になって。
だが、計算なら得意だぞ?』
「え?」
『神の思考領域を舐めるなよ。
世界の理を処理しているんだ。演算能力だけなら、君たちとは桁が違う』
「へぇ……」
俺が半信半疑でいると、先生が面白そうにニヤリと笑った。
彼女は立ち上がり、ホワイトボードにサラサラと数式を書き始めた。
「じゃあ、これは解けるかしら?
現代魔法学でも、解くのに数時間はかかると言われている複雑な魔力変動式よ」
ボードに書かれたのは、微分積分や対数が入り乱れる、見ているだけで頭痛がしそうな長大な数式だった。
俺なら見た瞬間に気絶するレベルだ。
しかし、ツクヨミはそれを一瞥しただけで、ペンを取った。
『こうだろ?』
キュキュッ。
彼は迷いなく、たった一つの数字を書いた。
「…………嘘」
先生が目を見開き、手元の計算機(魔導演算機)を叩いた。
そして数分後、顔を上げた。
「……正解よ。それも、途中式なしで……」
『当たり前だろ。
こんなの、僕からすれば指折り算みたいなものさ』
ツクヨミはドヤ顔でペンを回した。
「す、すげぇ……!!」
俺は感動した。
こいつ、ただのスイカ食いじゃなかったんだ!
「じゃあツクヨミ! この化学反応式の係数合わせも!」
『知らん。
だから言ってるだろ、その「記号」の意味が分からんのだ』
「……そこは分かってくれよ!!」
結局、計算が早くても「化学」の課題には役に立たなかった。
俺は先生に泣きつき、一つ一つ解説してもらいながら、なんとか課題を埋めていった。
◇◇◇
「ふぅ……終わった……」
時刻はすでに夕方。
俺は完成したプリントの山を見て、安堵の息を吐いた。
「よし。これを明日の朝、先生の机にこっそり置いておこう。
『昨日出し忘れてました』って顔をすれば、俺なら誰も文句言わないはずだ」
「……その悪知恵だけは回るわね、一之瀬」
先生が呆れ顔でコーヒーを啜る。
まあ、魔法学校の「問題児」である特権は使わせてもらおう。
「それより、一之瀬。
次は『文化祭』よ」
「あー……そういえば、そんな時期ですね」
秋の文化祭。
国立魔法学校でも一大イベントだ。
「今年はあなた達、高校二年生がメインよ。
クラスの出し物とか、そろそろ決めないといけない時期だけど」
先生はそこで言葉を切り、キッパリと言い放った。
「私は『デミウルゴス・システム』の研究で忙しいから、クラスのことには一切口出ししないわ。
好きにしなさい」
「えっ」
「担任としての職務放棄? 違うわ、優先順位の問題よ。
世界の危機と文化祭、どっちが大事か分かるでしょう?」
「……まあ、そうですけど」
清々しいまでの丸投げだ。
この先生、興味ないことには本当に首を突っ込まないな。
「了解です。
まあ、面倒ごとはユウスケがいい感じにまとめてくれると信じてます」
「そうね。彼はしっかりしているし、なんとかなるでしょ」
俺たちは顔を見合わせて頷いた。
クラスのことはユウスケたちに任せて、俺たちは世界の謎(とラクな出し物)について考えることにしよう。
そう決めて、俺は研究室を後にした。




