第89話 グランピング
神様だの教皇だのと騒がしい日々が過ぎ去り、季節はすっかり夏めいてきた。
俺たち国立魔法学校の生徒にとって、今の最大の敵は「神」ではない。
目の前に立ちはだかる「期末テスト」だ。
「……分からん。全く分からん」
放課後の教室。俺は机に突っ伏していた。
目の前には「化学」の教科書とノートが広げられている。
「おいおいヒロ、大丈夫か?
お前、こないだの物理の模試、なんであんなに点数いいんだよ。学年上位だぞ?」
前の席のユウスケが、返却された答案用紙を見ながら不思議そうに首を傾げた。
そうなのだ。最近の俺は、特定の教科においてある種の「覚醒」をしていた。
「物理はさ……分かるんだよ。『理』が」
「は?」
「重力加速度とか、放物線とか。魔法を使う時のイメージを当てはめれば、計算しなくても『答えがそこにある』のが見えるんだ。
国語も、相手の思考を読む感覚でいけるし」
魔法の深淵に触れたおかげか、世界の法則に関する科目は、感覚だけでスラスラ解けるようになっていた。
しかし。
「でもさ……化学だけは無理だ!!」
俺は頭を抱えて叫んだ。
「なんで『H』が水素で『O』が酸素なんだよ!
水は水だろ! 湿り気を感じろよ!
ベンゼン環とか六角形に亀の甲羅みたいな書き方しやがって!
お前ら分子レベルでそんな形してねーだろ!」
「……お前なぁ」
ユウスケが深い溜息をついた。
「お前みたいに『感覚』で問題を解こうとするのがそもそも間違ってるんだよ。
学問っていうのは論理の積み重ねだ。
お前の『湿り気を感じろ』なんて解答、テストで書いたら0点だぞ」
「うぐぅ……」
論理的思考の持ち主であるユウスケの正論が痛い。
最大の難所、化学。こいつを乗り切らないと夏休みが来ない。
「ま、赤点とらなきゃいいだろ。
それよりヒロ、夏休みはどうすんだ?
俺たち、男子数人でどっかの『海の家』に行こうぜって話してるんだけど」
「お、海の家か。いいなぁ、行ってみたい」
俺は教科書を閉じて現実逃避した。
パラソル、焼きそば、賑わうビーチ。まさに青春だ。
「でもごめん、今年も実家に帰るよ。」
「なんだ、律儀に帰省か?」
「いや……しきたりっていうか、母さんがうるさくてさ。
『愛娘たち』の顔を見せろって、毎日メッセージが来るんだよ」
「愛娘たち? お前、妹いたっけ?」
「違うよ。シラユキとフレアのこと」
俺は苦笑いした。
うちの母さんは、俺が契約している精霊たちを、まるで自分の娘のように可愛がっているのだ。
ちなみに俺とお兄ちゃんは完全に「おまけ」扱いだ。
「母さん、張り切ってデパートで新しいワンピースとか買ってるらしいんだ。
『あの子たちは肌が白いからパステルカラーが似合うわ〜』って」
「マジで? あの高飛車……いや、気位の高い精霊様たちが着るのか?」
「着るよ。母さん強し、だからな……。
あの二人も、母さんの前では『お義母様、素敵な服ですわ』って素直に着せ替え人形になってる」
「……母ちゃん強ぇな」
一般人には「大精霊」と恐れられる彼女たちを従わせる母の愛。
ある意味、神より強いかもしれない。
「それにしても、海かぁ……」
俺は窓の外の入道雲を見上げた。
「実家に帰っても、俺の地元の海には『海の家』なんてないんだよなぁ」
「え、ビーチあるんだろ?」
「あるよ。あるけど……俺が求めてるのは、もっとこう、チャラい兄ちゃんがいて、派手な浮き輪が売ってるような『THE・海の家』なの!
地元の浜辺にあるのは……すり身屋さんの『じゃこ天』を出してる小屋くらいしかないんだ!!」
「それはそれで美味そうだけどな」
「美味いよ! 揚げたて最高だよ!
でも、なんか違うんだよ! アニメみたいな夏がしたいの!」
俺はスマホを取り出した。
「ちょっと母さんに聞いてみる。俺が知らないだけで、洒落たスポットができてるかもしれない」
俺はその場で実家に電話をかけた。
「もしもし、母さん?
うん、帰るよ、フレアたちも連れて行くって。
……でさ、こっちの海に『海の家』ってないの?
え? 知らない? じいちゃんに聞け?」
どうやら母さんは興味がないらしい。
すぐに五島列島に住んでいるじいちゃんに電話を繋がれた。
『おおヒロか! 元気しちょるか!
なん? 海の家?
ガハハ! たしかにあの辺には、お前が言うようなチャラいもんはないのう!』
電話口から、潮風のような豪快な声が聞こえる。
「だよねー……。諦めるか……」
『じゃがヒロ。近くにあるぞ』
「え?」
『五島じゃないが……長崎県の「壱岐島」にな。
あそこなら観光客も多いし、最近流行りの「グランピング」ができる施設がオープンしたと聞いたぞ』
「ぐ、グランピング……!?」
俺の中に電流が走った。
グラマラスなキャンピング。
冷暖房完備の豪華なテントに泊まって、手ぶらでバーベキューを楽しめる、あの上級国民の遊びか!
「壱岐……! その手があったか!」
『フェリーで行けばすぐじゃ。じいちゃんが予約してやろうか?』
「ありがとうじいちゃん! 最高だよ!」
俺はガッツポーズをして電話を切った。
「決まったぞユウスケ!
今年の夏は『壱岐島でグランピング』だ!
憧れの海で、優雅にBBQしてやる!」
「うわ、いいなー! お前それ絶対楽しいやつじゃん」
ユウスケが羨ましがる。
俺の頭の中は、すでに青い海と肉の焼ける匂いでいっぱいだった。
……その足元に、手つかずの化学の教科書が転がっていることを、今の俺は直視したくなかった。




