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第86話 監視の空

 伊勢からの帰路。

 薬師寺グループ所有のプライベートジェットは、雲の上を滑るように飛行していた。


「さあ皆さん、お疲れ様でした!

 せっかく伊勢まで行ったのですから、名物の『赤福』でも食べて一息つきましょう!」


 機内のサロンで、アリサ先輩が明るい声でお茶と和菓子を配ってくれた。

 こし餡がたっぷり乗った、伊勢の名物餅だ。


「いただきます」


 俺は一つ手に取り、口に運んだ。

 柔らかい餅の食感。滑らかな餡の舌触り。

 ……はずなんだけど。


「……味が、しない」


 砂を噛んでいるようだった。

 脳が味覚の処理を拒否しているみたいだ。


「あらら……相当参ってますわね、ヒロ様」


 先輩が心配そうに眉を下げた。


「可哀想に。冬になったら『赤福ぜんざい』も始まりますから、その時にリベンジしましょう。

 もっと美味しいお餅、食べさせてあげますから!」


「……うん。ありがとう、先輩」


 俺は力なく笑って、お茶で餅を流し込んだ。


 窓の外には、突き抜けるような青空が広がっている。

 そして、太陽。

 さっきまであそこから、トンデモない奴が降りてきていたのだ。


「……神様、か」


 向かいの席で、エレノア先生が溜息交じりに呟いた。

 彼女は窓の外を忌々しそうに見つめている。


「私の生まれた聖公国ではね、幼い頃から口酸っぱく言われていたのよ。

 『天から神様が見ておられるから、正直に生きるのよ』って」


 先生は自嘲気味に笑った。


「まさか本当に見られているとはね。これは参ったわ。

 でも……心の底から思うわよ。

 あんな嫌な奴、信じてなくてよかったって」


 先生は昔から、祖国の狂信的な空気に馴染めず、信仰心が欠片も湧かなかったと言っていた。

 その直感は正しかったわけだ。


『ふん、神など所詮、意思を持つ高エネルギー体に過ぎん』


 足元でくつろいでいたイカヅチが、赤福を器用に食べながら言った。


『我ら精霊と本質的には変わらんよ。

 地に根付いて生きるか、天から見下ろしてふんぞり返っているかの違いだ』


「……高エネルギー体、ね」


 俺は窓に顔を近づけ、空を見上げた。

 どこまでも続く青。

 あの中で、あのアマテラスが「ずーーーっと」こっちを見ている?


「……おい!」


 俺は衝動的に叫んだ。


「こっち見んなよババァ!!」


 機内の空気が凍りついた。

 全員が「ヒ、ヒロ!? 消されるぞ!?」という顔で俺を見る。


 …………シーン。


 何も起きない。

 雷が落ちるわけでも、体が燃えるわけでもない。

 ただ、雲が流れているだけ。


「……無視かよ」


 それが逆に怖かった。

 怒る価値すらない。ただの観察対象。

 俺たちの言葉なんて、人間がアリの羽音を気にしないのと同じレベルなんだろう。


「はぁ……。嫌だなぁ」


 俺は背もたれに深く体を預けた。


◇◇◇


 それから、二週間後。

 俺たちは大学部のカイト兄さんの研究室に集まっていた。

 事後処理の報告会だ。


「……というわけで」


 アリサ先輩が、タブレット端末に海外のニュース映像を映し出した。


「教会本部は、教皇の死を『悪魔(ヒロ様)』との戦いによる名誉ある殉教と発表しました。

 その結果……世界中で信者たちの悲しみと、神敵への恨みは相当なものになっています」


 画面には、広場で涙を流して祈る人々と、俺の似顔絵(ツノが生えている)を燃やして抗議する過激派の姿が映っていた。


「一方で、静かに祈りを捧げる者たちもいますが……全体の熱量は上がっていますわね。

 アマテラスの言った通り、皮肉にも信仰心は爆増しています」


「……最悪だ」


 俺は頭を抱えた。

 勝手に襲ってきて、勝手に自滅したのに、全部俺のせいにされている。


「でも、安心して」


 先輩が少し声を明るくした。


「教会内部は今、トップを失って大混乱ゴタゴタしています。

 それに、彼らは見てしまったのですから。

 自分たちの神が、教皇を一瞬で消し炭にしたところを」


 先輩の言葉を聞いた、その瞬間だった。


 ――ボッ。


 俺の脳裏に、鮮明な映像が蘇った。

 太陽のフレア。

 断末魔の悲鳴すら上げられずに炭化した教皇。

 そしてその直前、彼によって無理やり命を吸い上げられ、干からびて死んでいった枢機卿たちの姿。


「っ……」


 強烈な吐き気が、胃の底からせり上がってきた。


「一之瀬君!?」


 先生の悲鳴が聞こえる。


「……うっぷ」


 俺は口元を押さえたが、間に合わなかった。


「ゲボォォ――……ッ!!」


 俺はその場に蹲り、ゴミ箱の中に胃の中身をぶちまけた。

 涙と鼻水が止まらない。

 人が、あんなに簡単にモノのように死ぬのを、目の前で見てしまったんだ。


「ヒロ……!」


 お兄ちゃんがすぐに駆け寄り、俺の背中をさすってくれた。


「大丈夫だ、ヒロ。ゆっくり吐け」


「はぁ、はぁ……ごめ、ん……」


「謝るな。無理もない」


 お兄ちゃんの手の温かさが、震える背中に沁みる。


「いくら強い魔法が使えても、お前はまだ高校生で……普通の人間なんだ。

 あんな狂気を見せられて、平気なわけがない」


「……うぅ」


 俺はしばらくの間、お兄ちゃんに介抱されながら震えていた。

 教会側も、人間だ。

 迂闊には手を出してこないだろう。

 彼らだって、焼かれたい人間なんていないのだから。


 世界は歪んでいて、神様は残酷で。

 俺は、ただの気分の悪い高校生だった。

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