第85話 太陽神降臨
正午。
太陽が天頂に昇り、最も光が強くなる時刻。
薬師寺グループの力によって完全に封鎖された伊勢神宮は、森のざわめきすら消えた異様な静寂に包まれていた。
「……空気が重いな」
宇治橋を渡り、玉砂利を踏みしめて進む俺の足取りは重かった。
隣を歩くお兄ちゃんも、背後のエレノア先生も、そしてアリサ先輩も、誰も口を開かない。
微精霊たちが怯え、逃げ惑っているのが分かる。
最奥、内宮。
本来なら神聖な空気に満ちているはずのその場所に、禍々しい祝詞が響き渡っていた。
「……来やがったか、悪魔め」
拝殿の前。
教皇が、狂気に満ちた瞳で俺たちを睨みつけていた。
その周囲には、数十人の枢機卿たちがひれ伏している。
「何をしている! ここは日本の聖地だぞ!」
俺が声を張り上げると、教皇は口元を歪めた。
「聖地? 違うな。ここは単なる『発信機』に過ぎん。
我らが神、ヘリオス様……いや、この国の名で言う『アマテラス』様を呼び出すためのな!」
教皇が錫杖を掲げた。
「我が忠実なる下僕たちよ! その命、神への供物として捧げよ!」
「なっ……!?」
俺が止める間もなかった。
教皇の足元から黒い魔法陣が展開し、ひれ伏していた枢機卿たちの身体を飲み込んだのだ。
「せ、聖下!? おやめください!」
「ぐあぁぁぁぁッ!!」
断末魔の叫びと共に、彼らの肉体から生命力が吸い上げられていく。
信仰のために命を懸けてきたはずの彼らが、信じるトップによって雑草のように刈り取られていく。
「……外道が」
俺が魔法を放とうとした、その時だった。
――フッ。
世界から、音が消えた。
いや、光が消えた。
見上げれば、天頂に輝いていたはずの太陽が、黒い円盤に覆われていく。
皆既日食。
真昼の空が急速に闇に染まり、星々が瞬き始めた。
「来る……!」
イカヅチが俺の影の中で震える声を出した。
本能的な恐怖。
闇に包まれた伊勢の空に、黒い太陽の縁から溢れ出すコロナのような光が輝いた。
それは徐々に強くなり、やがて直視できないほどの奔流となって地上へ降り注ぐ。
『――光は、遍く世界を照らす』
脳内に直接響く声。
光の柱の中に、一人の女性のシルエットが浮かび上がった。
あまりにも美しく、あまりにも神々しく、そしてあまりにも――異質。
太陽神、アマテラス。
この国で最も尊いとされる神が、そこにいた。
「おお……おおお!! アマテラス様!!」
教皇が狂喜乱舞し、地面に頭を擦り付けた。
「お待ちしておりました!
どうか、その神威をもって、目の前にいる悪魔を!
信仰を乱す一之瀬ヒロと、この国を焼き払ってくださいませ!!」
教皇の絶叫がこだまする。
俺は冷や汗を流しながら、身構えた。
勝てるのか? あんな、概念そのものみたいな存在に。
しかし。
光の中に立つ女神は、教皇を一瞥もしなかった。
彼女の視線は、真っ直ぐに俺に向けられていた。
『あなたが、一之瀬ヒロですね』
鈴を転がすような、美しい声だった。
でも、そこには人間に対する感情のような温度がない。
「……あんたが、太陽神か」
『ええ。西ではヘリオス、東ではアマテラス。呼び名は好きになさい。
……よく見ていましたよ。あなたのことを』
アマテラスはふわりと微笑んだ。
『あなたが教会に抗い、暴れ回るたびに……人々は恐怖し、より強く救いを求める。
あなたの存在が、停滞していた信仰心に火をつけ、私のもとへ莫大なエネルギーが集まってくる』
彼女は恍惚とした表情で、天を仰いだ。
『あなたは最高の「信仰の薪」です。
あなたが教会に楯突けば楯突くほど、信者の結束は強まり、祈りは熱くなる。
感謝こそすれ、私があなたを消す理由などありません』
「……は?」
俺は呆気にとられた。
教皇も、あんぐりと口を開けている。
「な、何を仰るのですか神よ!
そいつは悪魔です! 我らの敵です!
そんな戯言はいいから、早くそいつを殺してください! 今すぐに!!」
教皇が唾を飛ばして叫んだ。
神に対して、命令口調で。
アマテラスの視線が、初めて教皇に向いた。
ゴミを見るような、冷ややかな目。
『――うるさい』
ボッ。
一瞬だった。
太陽のフレアのような炎が煌めいたかと思うと、教皇の身体が炭化していた。
悲鳴を上げる間もなく。
ただの炭の塊となり、さらさらと崩れ落ちて風に消えた。
「…………」
俺たちは言葉を失った。
世界の宗教の頂点に立つ男が、指先一つで、いや、言葉一つで消された。
『あーあ』
アマテラスは困ったように眉を下げ、俺を見た。
『教皇? 死んじゃいましたね。
……君のせいで』
「はっ!? 俺!?」
俺は思わず叫んだ。
「俺、何もしてないよ!? 殺したのあんたでしょ!?」
『いいえ、君のせいです』
アマテラスは理屈にもならない理屈を、絶対の真理のように告げた。
『君が彼らを追い詰めなければ、彼もこんな暴挙に出なかった。
彼が私に無礼な口を利くこともなかった。
だから、彼が死んだのは君のせいです。
また、君のせいで人が死にましたね?』
「な、なんだその理屈……!」
めちゃくちゃだ。
でも、この圧倒的な存在の前では、それが事実としてねじ曲げられてしまう。
『ふふふ。まあ、代わりはいくらでもいますから』
アマテラスは興味なさそうに、教皇だった灰を踏みつけた。
そして、空へと浮かび上がる。
日食が終わり、太陽の光が戻り始めていた。
『これからもいい関係でいましょう、一之瀬ヒロ。
私は天から、あなたをずーーーっと監視していますからね』
楽しそうに、そして底知れぬ怖さを孕んだ笑顔を残して。
神は光の粒子となって消えた。
後には、誰もいなくなった静寂の神社と、疲れ果てた俺たちだけが残された。
「……なんだよ、あれ」
俺はその場へへたり込んだ。
勝てるわけがない。
あんなのが、空の上からずっとこっちを見ている?
「……最悪だ」
教会との戦いは終わった。
けれど、もっとタチの悪い何かに目をつけられた気がして、俺は深い深い溜息をついた。




