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第174話 65,536層の祝杯

 ――シュンッ。

 日本の研究室に、空間のドアが静かに開いた。


「よし……。これで、六万五千五百三十六層目……全部、だ」


 ドアを潜り抜けた俺は、床に膝をつき、深い、本当に深いため息を吐き出した。

 後ろから続いて帰還したジェンゴとエレノア先生も、壁に寄りかかってズルズルと座り込む。


「終わった……。本当に、五年間やり切ったわね……」

「ええ。長かったような、あっという間だったような……」


 俺が最初に第一層の並行世界へ足を踏み入れてから、気づけば丸『五年』という歳月が経過していた。

 一日三十六層という過酷なデスマーチ。

 毎日毎日、次元のドアを開き、見知らぬ十八歳の俺たちに因子を配り続ける日々。


 魔力は尽きずとも、精神は不死鳥の炎で焼き切っては再生させるという荒療治を繰り返し、俺の顔つきもすっかり大人びていた(なにせ、二十代前半の貴重な青春をすべてこの出張に捧げたのだ)。


 ツクヨミから提示された五年のタイムリミットを、俺たちは見事に走り抜けた。


「(……でも、終盤はなんだか変な感覚だったな)」


 俺はふと、最後に因子を渡した『十八歳の俺』の顔を思い出す。

 毎日違う人生を回った俺の精神年齢は老成しすぎていて、まるで一回り以上も歳の離れた別人に接しているような、奇妙な感覚すらあった。


「ヒロ、ジェンゴ、エレノア先生。……本当にお疲れ様」


達成感を噛み締めていると、モニターの前からカイト兄さんが立ち上がり、労いの言葉と共に歩み寄ってきた。


「五年間、一日も休まずによくやった。……さあ、顔を上げてくれ」


カイト兄さんが指差した先。研究室の中央にある大きなテーブルを見て、俺の鼻がピクッと動いた。


「……ん? この匂い……!」


俺の『ピザ・レーダー』が猛烈に反応した。

 テーブルの上には、俺がこよなく愛する『学食のジャンクなピザ』が、これでもかというほど山盛りに積まれていたのだ。

 しかも、それだけではない。ピザの隣には、宝石のように輝く超高級な『特上寿司の盛り合わせ』と、桐箱に入った見たこともないような『高級日本酒』の瓶が鎮座していた。


「おいおい! 今月の学食のピザの日、イレギュラーだろ!? 予定と違うぞ!」

「ははっ、やっぱりそこに気づくか」


俺の鋭いツッコミに、カイト兄さんが笑ってネタばらしをした。


「今日、お前たちの目標が達成される日に合わせて、学食のお偉いさんに頼み込んで特別に焼いてもらったんだよ」

「マジか! 兄さん最高!!」

「俺だけじゃないぞ。その寿司と酒は、薬師寺さんからの差し入れだ」

「えっ、薬師寺先輩が!?」


驚く俺に、カイト兄さんが肩をすくめる。


「ああ。俺が学食に無茶な注文をしてるのを耳ざとく察知してな。わざわざこれを届けに来てくれたんだよ。『一緒にどうですか?』って誘ったんだけどな……」


カイト兄さんは、薬師寺先輩の少し照れたような、けれど凛とした顔つきを真似て言った。


『今日だけは、過酷な使命を乗り越えた四人だけの祝杯の日ですもの。……野暮な部外者が、お邪魔はできませんわ』


そう言って、彼女は風のように帰っていったらしい。


「薬師寺先輩……! マジでいい奴だな!!」


俺の精霊のパトロン様は、ほんとうに頼れる最高の仲間だ。俺は心の中で薬師寺先輩に盛大な感謝を捧げた。


「さあ、冷めないうちにやろうぜ。五年間の、最高のお疲れ様会だ!」

「「「乾杯!!!」」」


俺とカイト兄さんはコーラで、ジェンゴとエレノア先生は日本酒で、高らかにグラスを合わせた。



とろけるチーズがたっぷりの学食ピザ。俺は一番大きなピースを手に取り、大きく口を開けてかぶりついた。


サクッとした生地の食感。熱々のチーズの熱。

 みんなが会話を止め、固唾を飲んで俺を見守っている。……俺自身も、心のどこかで少しだけ期待していた。大好きなこのジャンクな匂いと味なら、もしかしたら死んだ感覚が呼び起こされるんじゃないかって。


……だが。


「ハハッ……やっぱり、味がしねーわ」


俺は小さく息を吐き、かじりかけのピザを皿に置いた。

 まるで、温かい消しゴムを噛んでいるような、圧倒的な無機質。そこに「美味しい」という感動は一切存在しなかった。


「……そうか。お前の大好物なら、もしかしたらと思ったんだが……ダメだったか」


カイト兄さんが、心底悔しそうに顔を歪める。エレノア先生とジェンゴも、辛そうに目を伏せた。

 せっかくの祝勝会だというのに、部屋の空気が一気に重く沈み込む。


「そんな顔すんなって。いいんだよ、これで」


俺はあえて明るく笑い飛ばし、あらかじめ用意しておいた『完全栄養食のスムージー』のパックにストローを刺した。


「六万五千層への因子配りは終わったんだ。明日から世界線を統合して、全部取り戻せばいいだけだろ? ほら、俺の分まで食ってくれよ。冷めちまうぞ!」

「……そうだな。ああ、食おう。腹いっぱい食おう!」


俺が促すと、三人は少しだけ泣きそうな顔で笑い、「いただきます」とピザや寿司を口に運び始めた。


俺は、無味乾燥なスムージーをちびちびと吸いながら、ソファに深くもたれかかった。

 味覚はない。心から湧き上がるような感動も、今は薄っぺらい。

 それでも、ボケーっと眺める視界の先で、仲間たちが美味しそうにご馳走を食べ、笑い合っているこの光景は……間違いなく、俺が守りたかった日常だった。


ジャンクと高級が入り交じるカオスな宴会は、五年間の『並行世界レビュー』で大いに盛り上がった。


「いやー、しかし驚きましたよ。ヴァイスラントやゼノビアみたいな魔法国家、他の並行世界には一つも存在していなかったんですね」

「ああ、こっちの地球と全く別だったな。……それよりさ、先生」


俺はスムージーを片手に、顔を真っ赤にして日本酒を飲んでいるエレノア先生をジト目で見た。


「結局、九割近くの世界線で、先生はゴリゴリの『オタク』でしたね。部屋の惨状、凄かったですよ」

「う、うるさいわね! あれは知的好奇心よ! ノーマルヒューマンの探求心!!」


からかう俺に、エレノア先生がムキになって言い返す。


「大体、ジェンゴはどこに行っても真面目で苦労してたし! ヒロなんて、真面目な受験生だったり、ヤンキーだったり、引きこもりだったり、性格も生活環境も一番カオスで幅があったじゃないの!」

「確かに、ヒロさんの環境は毎回ドアを開けるのがギャンブルみたいで面白かったですね」


ジェンゴが笑い、ラボが温かい笑い声に包まれる。

 同じ魂を持っていても、環境が違えば歩む人生は全く違う。俺たちは六万五千回以上の人生を垣間見て、人間の持つ『可能性の幅広さ』を嫌というほど学んできたのだ。


「……でも」


俺は空になったスムージーのパックを置き、窓の外の夜空を見上げた。


「長かったな。……俺たち、本当に頑張ったな」


その言葉に、誰もが五年間の重みを思い出し、しんみりとした空気が流れ……かけた、その時だった。


「あら、長いとは言っても」


日本酒でいい気分になったエレノア先生が、寿司のイカを咀嚼しながらピシャリと言い放った。


「たった五年の労働で、六十五万年分の経験値とスキルを得られるのよ? どんなライトノベルやファンタジー物語でも、そんな狂ったチート設定、聞いたことないわよ!」

「「「……ぶっ!!」」」


あまりにも的確すぎるメタなツッコミに、俺たちは顔を見合わせ、腹を抱えて大爆笑した。

 確かにその通りだ。費用対効果で言えば、これ以上ない最高で最強の五年間の投資だった。


ひとしきり笑い合い、宴会も終盤に差し掛かった頃。

 俺は真剣な顔で、仲間たちを見回した。


「……さあて。最高のお疲れ様会は、ここまでだ」


俺の眼差しの変化に気づき、カイト兄さんたちもスッと表情を引き締める。


「明日から、いよいよ……俺たちの『本当の目的(統合)』を始めるぞ」


六万五千の可能性の種は、すでに蒔かれた。

 明日からは、そのすべてを本流(俺たち)へと回収し、巨大な一つの力へと統合する。神々すらも予測できない、前代未聞の事象が起きようとしていた。


嵐の前の、優しく穏やかな夜。

 俺たちは最後の決意を固め、来るべき『約束の日』の夜明けを静かに待つのであった。

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