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第175話 情報の濁流

 ピザと高級寿司の祝杯から一夜明けた、日本の研究室。

 昨夜の和やかな空気は完全に消え去り、室内はピンと張り詰めた緊張感に包まれていた。


 部屋の中央には、ジェンゴが錬金術の粋を集めて創り上げた『統合の魔道具』――鈍い銀色に輝く、禍々しくも美しい金属の箱が鎮座している。

 カイト兄さんは少し離れた場所で、魔力波形と次元の歪みを観測する管理コンソール(モニター)の前に張り付いていた。


「いいか、ヒロ。まずはテストとして『一層だけ』統合する」

「ああ、わかってる」

「向こうの十年分の人生の記憶、魔法の研鑽、感情のすべてが、一気に俺たち……いや、お前とエレノア先生とジェンゴの三人の脳に直接流れ込んでくるんだ。文字通り、情報の濁流だ。何が起きるか分からない、慎重にいけよ」


 カイト兄さんの真剣な声に、俺はこくりと頷いた。

 ジェンゴは静かに目を閉じ、エレノア先生は白衣のポケットに両手を突っ込んで小さく深呼吸をしている。


 俺は魔道具の前に立ち、ゆっくりと息を吐いた。

 数年前に一度だけ試した感覚を思い出す。この地球という星そのものを、一つの箱庭として認識し、己の支配下に置く。

 研ぎ澄まされた感覚の中で、世界が俺の手のひらの上に収まるような錯覚を覚えた。


 俺はスッと魔道具のコアに手を触れ、精霊王としての純度の高い魔力を静かに注ぎ込んだ。


「……じゃあ、統合いくよ」


 カチリ、と。

 世界を繋ぐスイッチが入った音がした。


 魔道具が神々しく発光した瞬間――爆発や物理的な衝撃は一切起こらなかった。

 しかし。


「――ッ!!」


 俺たち三人の脳内に、直接『他人の十年間』が、凄まじい濁流となって叩き込まれたのだ。

 それはまるで、宇宙の真理アカシックレコードに直接触れてしまったかのような、あるいは禁忌の真理の扉を無理やりこじ開けられたかのような、圧倒的で暴力的な情報量だった。


 膨大な魔法の構築式。見たこともない景色。焦燥感。徹夜の疲労。達成の喜び。

 誰かの十年間という途方もない時間の重みが、一瞬にして俺の脳のシナプスを駆け巡り、魂の奥底に直接焼き付けられていく。


「はぁっ、はぁっ……!」


 情報の奔流が収まった直後。

 真っ先に異変を見せたのは、エレノア先生だった。

 彼女は「……っ!?」と顔をしかめ、こめかみを両手で強く押さえながら、ガクンと膝をつきかけた。


「先生!?」

「だ、大丈夫よ……っ。ただの、頭痛……。ちょっと情報量が、多すぎただけ……」


 エレノア先生は冷や汗を流しながら、強がるように荒い息を吐いた。

 十年間という他人の記憶が一気に流れ込んできたのだ。ダメージを受けるのは当然かもしれない。だが、一番大人の私がここで倒れるわけにはいかないと、彼女は必死に平気なフリをしていた。しかし、俺やジェンゴと比べても、彼女の消耗具合は明らかに一人だけ異常だった。


 俺が心配して隣を見ると、ジェンゴは痛がる様子もなく、静かに立ち尽くしていた。

 ただ、その大きな瞳から、ツーッと一筋の美しい涙がこぼれ落ちていた。


「ジェンゴ……?」

「……いえ。大丈夫です、ヒロさん。ただ……」


 ジェンゴは胸元をギュッと握りしめ、ポツリとこぼした。

 別次元の彼が、泥にまみれ、どんな想いで他者のために祈り続けたのか。その『尊すぎる十年間』の重みと慈愛の深さに、彼の魂が深く、深く震えているようだった。


 そして、俺はといえば。

「……なんだこれ」


 軽く頭を振っただけで、ピンピンして立っていた。

 それどころか、俺の魂の器は、他人の十年分の魔力と記憶を取り込んだことで、統合のショックに耐え抜き、以前よりも一回り大きく、強靭にアップデートされていたのだ。


 俺は自分の手のひらを見つめ、自然とニヤリと笑みがこぼれるのを止められなかった。


「すげえ……! 魔法の構築式が、手に取るように分かるぞ」


 頭の中に流れ込んできたのは、俺がかつて思いつきもしなかったような、複雑で緻密な魔法の理論。

 特定の空間を隔離してシミュレーションを行う仮想環境……それを、現実世界へとそっくりそのまま召喚し、物理法則として定着させるという超高等技術。


「『仮想環境の物理化』か! マジかよ、この世界線の俺、頭良すぎだろ! ラッキー!!」


 五年間、毎日三十六回も次元跳躍を繰り返す過酷な激務をこなし、すでに魔王としての片鱗を見せ始めている俺にとって、この情報の濁流は「苦痛」ではなく、むしろ「極上の快感」だった。

 並行世界の自分が十年かけて苦労して編み出した理屈を、一瞬で『理解』し、完全に自分のものにしてしまったのだ。この圧倒的な万能感。


「おい、ヒロ。大丈夫か?」


 モニターから目を離したカイト兄さんが、少し心配そうな顔で近づいてきた。


「波形を見る限り、本当に一層だけでもとんでもない情報量とエネルギーの移動だったぞ。エレノア先生もきつそうだしな。よし、時間はかかるが、安全第一でこのまま一層ずつ、ゆっくり進めていくぞ」


「……いや」


 俺は、カイト兄さんの言葉を遮った。


「え?」

「一層ずつなんてやってたら、六万五千層の統合に何年かかるんだよ」


 俺は顔を上げ、カイト兄さんを見た。

 自分の瞳が、ギラギラと怪しく……まるで未知の知識に飢えたジャンキーのように輝いているのが、自分でもわかった。


「兄さん……これ、すげえよ。もっとだ。もっと知りたい、もっと見たいんだ!」

「おい、ヒロ……お前、なんか様子が……」


 脳髄を駆け巡る、知識の爆流という極上の麻薬。

 もっと他の俺たちが、どんな魔法を編み出したのか。どんな真理に辿り着いたのか。早く知りたい。一秒でも早く、すべてをこの手にしたい。


 完全にフロー状態(知への渇望)に入ってしまった俺は、制止しようとするカイト兄さんを笑って躱した。


「次は、十層まとめていくぞ!!」

「待て、ヒロ! いきなり十倍は……!」


 俺はカイト兄さんの制止も聞かず、再び地球を箱庭として認識し、統合の魔道具に膨大な魔力を叩き込んだ。

 俺たち三人が、未曾有のインフレと、そして恐るべき崩壊の危機へと足を踏み入れていくことになるとも知らずに。

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