第134話 再びの絶対零度と、風の里の長老たち
五島列島の夜は静かだ。
波の音だけが聞こえる祖父の家の庭先に、俺、兄さん、ジェンゴ、そしてエレノア先生の四人がこっそりと集まっていた。
「じいちゃんはすっかり寝入ったみたいだな」
「ああ。さて、それじゃあサクッと魂を抜くか。……シラユキ」
俺が呼ぶと、冷たい夜風と共に、和装の氷雪の精霊・シラユキが姿を現した。
「……心の準備はよろしいですか?」
シラユキが、一切の感情を交えずにジェンゴと先生を見る。
「い、いや、全然できてないんですけど!」
「せめてカウントダウンくらい――」
二人の悲鳴が終わるより早く。
シラユキがスッと手を振った、ただそれだけで。
ピキィィィッ!!
一瞬にして極寒の冷気が爆発し、ジェンゴと先生の肉体が分厚い氷の棺に閉じ込められた。カチンコチンに凍りつき、完全に生命活動が仮死状態へと移行する。
ポンッ、ポンッ! と、二人の半透明な魂が、たまらず氷から弾き出されて宙に浮いた。
「ヒィィィィッ!! 何度やっても寿命が縮むわ!!」
「筋肉が……僕の筋肉が凍りついていく感覚が……っ!」
空中でパニックになる二人の魂。
だが、その声は『ただのノーマルな人間』である兄さんには一切聞こえていないし、見えてもいない。
兄さんは、庭に転がった巨大な氷の塊(ジェンゴと先生)を、眼鏡を押し上げながらまじまじと見下ろした。
「……見るのは二回目だけど。これ、本当に死んでないんだよな?」
「大丈夫だって。シラユキの完璧なコールドスリープだから」
俺が保証すると、兄さんは「ならいいが。肉体の管理は俺がやっておく」と頷いた。
「じゃあ、俺も行くよ」
俺は目を閉じ、銀杖を握りしめた。
二人のように荒療治を受ける必要はない。俺は自分自身の意識を『召喚空間』へと呼び出し、そこで肉体と精神を分離させる。
水の中に潜るような感覚の後、俺の精神体は肉体を抜け出し、ジェンゴたちの横へとフワリと浮かび上がった。
「お待たせ。それじゃあ、案内を頼むぞヒューイ」
俺が声をかけると、夜空から緑色の髪をした風の精霊・ヒューイが舞い降りてきた。
「任せとけって! さあ、風の道標に乗り遅れるなよ!」
ヒューイが指笛を吹くと、見えない気流が俺たちの魂をふわりと包み込んだ。
物理的な重力から完全に解放された俺たちは、夜空へ向けて一直線に飛び立つ。
「すごい……! これが、精神体の視界……!」
エレノア先生が、空中で震えるような声を上げた。
眼下に広がる五島列島の海と山。だが、精神体となった俺たちの目には、単なる風景以上のものが見えていた。
木々が呼吸するたびに放たれる、淡い緑色の生命力の奔流。海流に沿って脈打つ、青く巨大な星の魔力。物理法則というフィルターを通さずに直接世界を『知覚』する感覚は、圧倒的な美しさに満ちていた。
「不思議です……。筋肉の重さが全くないのに、体の奥底から無限の力が漲ってくるような気がします!」
ジェンゴも、空を泳ぐように飛び回りながら感動している。
やがて星空と景色が溶け合い、次元の境界が曖昧になっていく不思議な浮遊感のトンネルを抜けると。
「ようこそ! 『風の精霊の里』へ!」
ヒューイが両手を広げた。
そこは、見渡す限りの青空と、雲海に浮かぶ無数の『浮遊大陸』が連なる、幻想的な精神世界だった。重力という概念が存在せず、心地よい旋風が常に吹き抜けている。
「おーい! みんな! 帰ってきたぜー!」
ヒューイが大声を上げると、あちこちの浮遊島から、大小様々な姿をした風の精霊たちがわらわらと集まってきた。
人間の子供のような姿、鳥や獣を模した姿、あるいはただの旋風そのもの。そのどれもが、好奇心に満ちた目でこちらを見ている。
「ああっ! ヒューイが帰ってきたぞ!」
「本当だ! ヒューイだ!」
「……てことは、あそこにいるのは!」
「おおおっ……! 王だ! 王が帰還されたぞー!!」
一陣の風が吹き抜けるように、歓声が里中に広がっていく。
精霊たちが俺の周りを嬉しそうに飛び回り、空気がお祭り騒ぎのような熱気を帯び始めた。
「よしよし。みんな元気そうだな」
ヒューイが満足げに頷き、俺たちを振り返った。
「じゃあ、奥にあるひと際大きな浮島の、長老のところに行こうぜ」
俺たちは精霊たちのわらわらとした大群に囲まれながら、里の中心にある最も巨大な浮遊大陸へと降り立った。
「どうだ? 風の精霊の里は」
ヒューイが自慢げに尋ねてくる。
「すごいな。こんな世界が広がっていたなんて……」
俺は周囲を見渡し、ふと思った疑問を口にした。
「それにしても、風の精霊って随分と数が多いんだな」
『それは、空気が存在する場所、風が吹く場所には、必ず我ら風の精霊が無数に存在しているからです』
ふいに、威厳のある声が響いた。
見れば、浮遊島の中心から、長い髭を蓄え、風の衣を纏った古き精霊――長老たちが、静かにこちらへ向かって歩み寄ってくるところだった。
『元々、我ら精霊はこの星の存在ではありませぬ。だが、故郷たる元の星においても、空気あるところ、風あるところに我らは存在し、世界を繋ぐ役割を担っておりました。いわば、精霊の原点のような存在なのです』
「なるほど、原点か……」
俺が納得して頷くと、先頭にいた長老が、ゆっくりと俺の目の前で立ち止まり……その瞳を大きく見開いた。
『おお……おおおっ……!』
長老の目から、ポロポロと風の涙が溢れ出した。
彼はそのまま、俺の前に深く、深く平伏した。後ろに控えていた他の長老たちや、周囲を飛んでいた無数の風の精霊たちも、一斉にそれに倣って頭を下げる。
『王よ……! よくぞ、よくぞお戻りになられました……!』
その光景は、ただの人間だった俺の背筋に、ゾクッと鳥肌を立たせるほどの圧倒的なものだった。エレノア先生もジェンゴも、言葉を失って息を呑んでいる。
『しかし……』
顔を上げた長老が、俺の魂を見て不思議そうに首を傾げた。
『精霊の理を視る『精霊の眼』を持っておられるあなた様ならば、わざわざ精神体などにならずとも、御身のままでこの世界に足を踏み入れることができたでしょうに。なぜこのようなお姿で?』
「えっ? 俺、肉体のままでもここに来れたのか?」
初耳だった。俺が驚いてヒューイを見ると、彼は「あちゃー」という顔で後頭部を掻いた。どうやら、ヒューイ自身もその事実に気づいていなかったらしい。
「まあいいさ。今回はこの二人(ジェンゴと先生)も一緒だったから、精神体になる練習も兼ねてってことで丁度よかったよ」
俺は苦笑いしながら、長老たちに向き直った。
「みんな、出迎えてくれてありがとう。……でも、正直に言うよ」
俺は頭を掻きながら、ありのままの気持ちを伝えた。
「『王よ』って言われても、俺にはまだ、自分が精霊の王様だっていう実感がないんだ。記憶があるわけでもないし」
『王……』
「でも、これから俺のやるべきこと……その『王』としての自覚や、手がかりみたいなものを掴みたくて、ここに来た。俺に、風のことを教えてくれないか?」
俺の飾らない言葉に、長老たちは一瞬顔を見合わせ。
やがて、パァァッ! と満面の笑みを浮かべた。
『おおっ! それならば、まずは盛大に祝いましょうぞ!!』
『ええ、ええ! 王の帰還と、新たなる旅立ちを祝して!』
長老たちが立ち上がると同時に、里中に吹き荒れる風の音が、一気に陽気なリズムへと変化した。
『宴じゃ! 風の宴を開けぇぇい!!』
厳かな謁見の空気は一瞬にして吹き飛び、風の精霊たちによる、狂騒の大宴会の幕が切って落とされた。




