第125話 魔王の兄の悪魔の発想
夕日に照らされた研究室。
兄さんの眼鏡の奥で光る、冷たくも熱を帯びた瞳に、俺は思わず息を呑んだ。
「……灰色の世界の自分を利用するって、どういうことだ?」
俺が尋ねると、兄さんはホワイトボードの『分割された線』の一つを指差した。
「世界線を統合する際、ベースとなる俺たちの魂に、他の世界の『俺たち』が吸収される。それは避けられない運命だ」
「うん」
「だったら、吸収される側の魂が『豊か』であればあるほど、統合した時の俺たちの力は増すということにならないか?」
兄さんは、悪びれもせずに恐ろしいことを言い始めた。
「あの灰色の世界は、魔法がない。物理法則だけで回る退屈な世界だ。あそこにいる俺たちは、きっと凡人として平々凡々な人生を送っているだろう」
「……まあ、そうだろうな」
「だが、もし」
兄さんが、ホワイトボードの細い線に、赤いマーカーで『光』のような印を書き加えた。
「この世界に魔法が顕現したように……あの世界の自分たちに『魔法』という因子もしくは、必要な知識の方向性を授けたらどうなる?」
「え……?」
「あっちの世界で、勝手に魔法の研鑽を積ませるんだ。数年、あるいは数十年。彼らが独自の魔法理論を構築し、精神的にも大きく成長したところで――『統合』する」
兄さんは事もなげに、手のひらを握り込むジェスチャーをした。
「俺たちは労せずして、別の人生で培われた膨大な魔力と経験値、そして新しい知識を丸ごと手に入れられるというわけさ」
静寂が、研究室を包み込んだ。
あまりにも合理的。そして、あまりにも非道徳的な理論。
「……さすがね」
最初に口を開いたのは、エレノア先生だった。
彼女は引きつった笑いを浮かべながら、兄さんを見ている。
「さすが魔王の兄ね。控えめに言って『悪魔』かしら」
「光栄です、先生」
「褒めてないわよ。つまり、他の世界線の自分を『都合のよい餌(家畜)』として育てて、丸々太ったところで収穫してパワーアップするってことでしょう?」
「言葉は悪いですが、そういうことです」
涼しい顔で肯定する兄さんに対し。
「ふざけないでください」
低く、地を這うような声が響いた。
ジェンゴだった。
普段は温厚で礼儀正しい彼が、両拳を強く握りしめ、真っ向から兄さんを睨みつけている。
「僕は反対です。……倫理的に間違っています」
「ジェンゴ?」
「あっちの自分にも、彼ら自身の尊い命と日常があるんですよ。勝手に力を与えて、都合よく回収するなんて……それじゃあ、僕たちから搾取している神々と同じじゃないですか!」
ジェンゴの怒りは、彼の深い優しさから来るものだった。
戦場という命の軽い場所で育ったからこそ、彼は誰よりも「他者の人生」を重んじている。相手が別の世界線の自分であろうと、踏みにじっていい理由にはならないと。
正論だった。完全に正しい。
「ヒロさんも、そう思いますよね!?」
ジェンゴが、強い眼差しで俺を見た。
俺は腕を組み、目を閉じ、そして――。
「……いや、俺は賛成だな」
「なっ……ヒロさん!?」
ジェンゴが目を見開いた。先生も「えっ」と息を呑む。
「ヒロさん! 本気で言ってるんですか!? あっちのヒロさんは、あなたの糧になるために生かされることになるんですよ!?」
「まあ、そうかもしれないけどさ」
俺はジェンゴの真っ直ぐな視線を受け止めながら、言葉を紡いだ。
「俺たち、あの世界を見たろ? 魔力がなくて、ただ物理法則だけで動いてる、息の詰まるような灰色の世界だ」
「……はい」
「俺はあそこの『俺』のことは知らない。でも、きっと退屈な毎日を持て余してるはずだ。だって魔法がないんだぜ?……もしそんな奴が、ある日突然、本物の魔法に出会えたら?」
「え……」
「想像してみろよ。何の変哲もない日常を送っていたのに、ある日突然、空間を切り裂いて炎を出せるようになるんだぜ? まるで世界が変わる」
俺はニヤリと笑った。
「どうせ最後は統合される運命なら、ただ老いて死んでいくだけのあいつ(俺)に、魔法っていう最高の玩具(可能性)を配ってやりたい。あいつの退屈な日常を、ぶっ壊してやりたいんだよ」
「…………」
ジェンゴが絶句した。
俺の中には、他人の人生を餌にするという罪悪感もなければ、神と同じだという自覚もない。
あるのはただ、「自分に魔法の楽しさを教えてやりたい」という、純粋な好奇心だけだ。
「……ふふっ、アハハハハ!」
兄さんが、肩を揺らして笑い出した。
「お前ならそう言うと思ったよ、ヒロ」
兄さんと俺の視線が交差する。
合理的搾取を企む兄と、純粋な好奇心でそれを肯定する弟。
ベクトルは違えど、行き着く先は全く同じだった。
「……信じられません」
ジェンゴが、痛みを堪えるように目を伏せた。
「先生……僕は、とんでもない兄弟と友人になってしまったのかもしれません」
「ごめんなさいジェンゴ君。私もマッドサイエンティストの端くれだけど、この兄弟の倫理観の欠如には一切フォローを入れられないわ」
先生が呆れたように肩をすくめた。
だが、俺たちの決意が揺らぐことはなかった。
並行世界の俺たちに、魔法(可能性)を配る。
それが、神殺しに向けた最大の布石となるのだから。




