第123話 灰色の世界
翌日の午前中。
俺たちは再びエレノア先生の研究室に集まっていた。
机の上には、昨日と同じように召喚されたツクヨミが腰掛けている。
「準備はいいかい? 座標の固定は僕が補助するけど、実際に空間を裂くのはヒロ、君の役目だよ」
「ああ、分かってる。でも、いきなり向こうの街中に飛び出して大丈夫か? パニックにならない?」
俺が懸念を口にすると、ツクヨミはふふんと鼻を鳴らした。
「そこは僕の力の見せ所だね。僕は何の神か忘れたのかい? 夜の神、鏡の神だ。君たちを人間の認識から隠匿することなんて朝飯前さ」
「ああ、なるほど。さすが『陰キャの神』だ」
「……それ、僕のこと馬鹿にしてるよね?」
ツクヨミがジト目で俺を見た。
「違う違う。裏ボス的な『隠しキャラ』って意味だよ。強キャラ感あるだろ?」
「ふむ……ならいいか。褒め言葉として受け取っておこう」
単純な神様でよかった。
「それじゃあ、行くぞ」
俺は銀杖を構え、空間の一点を凝視した。
ツクヨミの力が、俺の認識をガイドしていく。
ここにあるはずのない『膜』。世界と世界を隔てる極薄の境界線。
――開け。
俺はイメージの刃で、その膜を切り裂いた。
バリィッ!!
空間に黒い亀裂が走る。
「素晴らしい……! 位相空間の強制転移……!」
エレノア先生が『眼』をカッと見開き、瞬きもせずにその現象を脳裏に焼き付けている。
「さあ、飛び込むんだ!」
ツクヨミの合図と共に、俺たちは裂け目へと身を躍らせた。
◇
着地した感覚と共に、ツクヨミの隠匿魔法が発動する。
俺たちが立っていたのは、どこかの路地裏だった。
恐る恐る、表通りに出る。
「……一見すると、何も変わりませんね」
ジェンゴが辺りを見回して言った。
アスファルトの道路。立ち並ぶビル群。空を飛ぶ飛行機。
科学技術のレベルは、俺たちの世界とほぼ同じに見える。
だが。
「……気持ち悪い」
俺は吐き気を堪えていた。
空気が、死んでいる。
本来なら大気に満ちているはずの微精霊が、ここには一匹もいない。まるで真空の中に放り出されたような、強烈な違和感。
「魔力の色がないわ」
先生も顔をしかめている。
「この世界、モノクロ映画みたい。……本当に魔法がないのね」
俺たちは人目のない場所を選び、一度隠匿魔法を解除した。
そして、近くの書店へと入った。
この世界の情報――特に地図を確認するためだ。
世界地図のページをめくる。
アジア、中東、ヨーロッパ……。
「……ない」
ジェンゴが小さな声を上げた。
彼の指が震えている。
「ゼノビア共和国が……存在しません。ここは……ただの乾燥地帯として区分されています」
そこには国境線すらなく、ただ荒涼とした大地が広がっているだけだった。
魔法資源がなければ、あの地は人が住める場所ではなかったのだ。
「私の祖国、聖公国ヴァイスラントも影も形もないわね」
先生は淡々と言った。
「まあ、当然ね。あの国は『魔法は神からのギフト』だと主張する宗教で成り立っていた国だもの。魔法がないなら、存在そのものが消滅するわ」
「……僕たちの歴史は、魔法ありきだったんですね」
ジェンゴがショックを受けたように肩を落とす。
俺たちが当たり前だと思っていた国や故郷が、ここでは存在すら許されていない。
「……よし、店を出よう」
俺たちは重苦しい空気のまま書店を出た。
これ以上ここにいても、虚無感が増すだけだ。
「空からこの街を一通り見て回って、帰ろう。移動手段がない」
俺たちは再び人目のつかない路地裏に入り、人気のない公園についた。ツクヨミの補助で隠匿魔法を張り直した。
そして。
「来い、フレア!」
ボウッ!
巨大な火竜が召喚される。
『……あら? なんだか空気が不味いですわね』
フレアもこの世界の「味気なさ」を感じたらしい。文句を言いながらも、俺たちを背中に乗せてくれた。
上空へと舞い上がる。
その瞬間。
「うっ……!」
ガクッと、視界がぼやけた。
全身から力が抜けていく。
「まずい……魔力が、回復しない」
この世界には大気中の魔力がない。呼吸をするように魔力を取り込むことができないのだ。
フレアの維持と、ツクヨミの隠匿魔法の補助。自家発電(体内魔力)だけでは燃費が悪すぎる。
「ヒロさん!」
背後からジェンゴが声を上げた。
「僕の魔力を使ってください!」
「ジェンゴ……?」
「受け取ってください!」
ジェンゴの手が、俺の背中に押し当てられる。
本来、他人の魔力というのは異物であり、簡単には混ざり合わない。
だが。
ドクン。
熱い奔流が、抵抗なく俺の体内に流れ込んでくる。
(……そうか)
俺は普段から、地球の核のエネルギーをその身に通している。
そしてジェンゴもまた、地球の核の分身体、「根源」に近い力を持っている。
だから、俺の体質が彼の魔力をすんなりと受け入れたんだ。
「……助かった。これなら保つ!」
俺は体勢を立て直した。
眼下には、灰色の街並みが広がっている。
魔法のない世界。物理法則だけで回る世界。
俺は自分の住む街の方角を見たが、すぐに行くのをやめた。
きっと、そこを見ても意味がない。俺の知っている場所ではないだろう。
「……帰ろう」
全員が無言で頷いた。
長居は無用だ。魔力が尽きる前に帰らなければならない。
俺は残った魔力を振り絞り、再び空間に手をかざした。
イメージするのは、あの場所。
あの仮面がある、あの研究室。
「見えるかいヒロ? あの強烈な光が」
ツクヨミが指差す。
無数の分岐の向こうに、一つだけ、燃え盛る世界が見えた。
俺たちがいるべき、魔法に満ちた世界。
「ああ、丸わかりだ! 帰るぞ!!」
俺は光に向かって、裂け目を作った。
4人でその中へと飛び込む。
◇
ドサッ、と床に転がる音。
見慣れた研究室の天井がそこにあった。
「……はぁ、帰ってきたぁ……」
戻った瞬間、濃密な魔力が毛穴という毛穴から染み込んでくる。
まるで水を得た魚だ。全身の細胞が歓喜しているのが分かる。
「こんなもんかー、って感じでしたね」
ジェンゴが身体を起こしながら言った。
時間にして四時間ほどの小旅行。だが、その疲労感は凄まじい。
「ペン! 紙! 早く書き留めないと忘れるわ!!」
先生は帰るや否や、鬼の形相で机に向かい、異世界渡航の術式記録を猛烈な勢いで書き始めた。
さすがだ。
「…………」
ふと見ると、兄さんが難しい顔をして座り込んでいた。
何かを深く考え込んでいる。
ただの疲労ではない。もっと深い、何か良からぬ着想を得てしまったような――そんな顔だった。
「兄さん?」
「……ああ、いや。なんでもない」
兄さんはハッとして、いつもの涼しい笑みを浮かべた。
「とりあえず、無事で何よりだ。……魔法がある世界ってのは、意外とありがたいもんだな」
そう言って、兄さんは研究室の窓から見える夕焼けを眺めた。
俺たちの世界は、今日も美しく、そして騒がしく輝いている。




