第122話 机上の空論と、神の導き
数日後の放課後。
俺、兄さん、ジェンゴの三人は、エレノア先生の研究室に呼び出されていた。
ホワイトボードには、複雑怪奇な数式と図形が書き殴られている。
テーマは『並行世界への干渉』についてだ。
「……というわけで、理論上は世界は選択の数だけ分岐しているわ」
先生が指示棒でホワイトボードを叩く。
「多世界解釈における位相空間の干渉理論……。空間魔法でその『膜』に干渉できれば、隣の世界線くらいは覗けるはずよ」
「なるほど。シュレーディンガーの猫の状態が確定する前の揺らぎを利用して、観測位置をズラすわけですね」
兄さんが納得したように頷く。
「量子的重ね合わせの状態にある空間座標を、ヒロの認識力で無理やり固定化すれば、あるいは……」
「……」
俺は虚空を見つめていた。
二人が何を言っているのか、さっぱり分からない。ジェンゴもポカンと口を開けている。
俺たちは「感覚派」だからな。
「でも、あくまで机上の空論ね」
先生がペンを置いて溜息をついた。
「実際に渡るためのエネルギー計算も、座標の固定方法も不明よ。下手に干渉して、次元の狭間に放り出されたら帰ってこられないわ」
「リスクが高すぎますね。確証がない以上、実験はできません」
空気が煮詰まった。
やはり、異世界(並行世界)への干渉なんて、そう簡単にできるものじゃないのか。
『……世界線を渡る感覚が分からないなら、実際に渡ってみてはどうかな?』
その時。
俺の脳内に、直接響くような懐かしい声がした。
「あ、ツクヨミ?」
「えっ、ヒロさん? 誰と話しているのですか?」
ジェンゴがキョロキョロと周囲を見回す。
そうか、収納空間からの声は俺にしか聞こえないんだった。
「ちょっと待ってて。詳しい人がいるから、参考人として呼ぶよ」
俺は空間に手を差し入れた。
久しぶりの召喚だ。
「出てきてくれ、ツクヨミ」
空間が揺らぐ。
次の瞬間、研究室の机の上に、神々しい光とともに『彼』が顕現した。
「やあ。久しぶりだね、みんな」
日本の神話に名を連ねる月読命が、そこに座っていた。
「あ、あら。久しぶりね、月の神様」
以前、会ったことのある先生は、驚くことなく平然と挨拶をした。
しかし、初対面のジェンゴはそうはいかない。
「か、かかか、神ぃぃぃっ!?」
ジェンゴが椅子から転げ落ち、そのまま土下座の姿勢で固まった。
「せ、精霊の次は神ですか!? ヒロさんの交友関係はどうなっているんですか!?」
「まあ、落ち着いてよジェンゴ。悪い神様じゃないから」
「そうだよ。僕らはただ協力関係にあるだけさ」
ツクヨミはクスクスと笑った。
「神にとっての時間の流れは君たちとは違うからね。僕にとっては、ついさっき会話したばかりの感覚だよ」
「相変わらずだな。……で、さっきの話、聞こえてたか?」
「ああ。隣り合わせの世界線なら、僕の補助と君の空間魔法があれば容易いことだよ」
ツクヨミはあっさりと肯定した。
「……最初からツクヨミに頼ればよかった」
「まあ、灯台下暗しとはこのことだな」
兄さんが苦笑する。
「でも、行って帰ってこれるのか? 迷子になったら洒落にならないぞ」
「その点は心配ないよ」
ツクヨミが自信たっぷりに答える。
「この世界線は特殊なんだ。魔法がこれほど顕現し、エネルギー密度が高い世界は他にない」
「どういうことだ?」
「隣の世界線……つまり『魔法のない世界』と比べて、この世界はキャンプファイヤーのように燃え盛って見えるのさ。エネルギー量が桁違いだから、帰るべき場所を見失うことはないよ。それに、僕もついているしね」
なるほど。
魔法があるこの世界だけが、異様に「光って」見えるわけか。
「それに」
ツクヨミが俺を見た。
「君は、いいものを持っているね」
「いいもの?」
「収納空間の中にある、木彫りの仮面だよ」
俺は言われるがままに、収納空間から仮面を取り出した。
ゼノビアでジェンゴの村で作った、あの仮面だ。
「これか?」
「うん。それには君の強い思念……意識が染み込んでいる。それが時空を渡る際の、強固な道標になるんだ」
「えっ、これ……そんな重要アイテムだったんですか!?」
ジェンゴが顔を上げて驚いた。
俺も驚いた。ただの記念品だと思っていたのに、いつの間にか俺の「帰巣本能」が宿っていたらしい。
「認識次第では特定の時代に飛ぶことも可能だが……まあ、最初は『同じ時間の隣の世界』にしておきたまえ」
「りょーかい」
俺は仮面を撫でた。
これが俺たちの命綱になるのか。
「……決まりね」
先生がバチンと手を叩いた。
「出発は明日にしましょう。今日は準備と、計画の作成よ!」
「そうですね。……向こうの世界で何を確認するか、リストアップしましょう」
兄さんが手帳を開く。
「俺は、魔法がない世界がどうなっているのか見てみたい。科学がどう発展しているのか、あるいは不便なのか」
「私は魔力濃度の測定とサンプル採取ね。魔法がないなら、物理法則だけでどうやって世界が回っているのか興味があるわ」
研究者二人はノリノリだ。
「僕は……」
ジェンゴが少し不安そうに呟いた。
「僕の国……ゼノビアがどうなっているか、確かめたいです」
「ああ、そうか」
俺たちの世界では、ゼノビアは魔法と軍事力で成り上がった新興国だ。
でも、魔法がなかったら?
「おそらく、統治国家としては存在していないか……かなり貧しい地域になっている可能性がありますね」
兄さんが冷静に分析する。
魔法資源という「強み」がないゼノビア。想像するだけでも厳しい。
「覚悟はしておけよ、ジェンゴ」
「はい……!」
ジェンゴが拳を握りしめた。
「あと、もう一つ」
兄さんがふと、遠い目をした。
「もし可能なら……『向こうの自分』に会ってみたいものだが」
「ドッペルゲンガーってやつか? 会うと死ぬとか言うぞ」
「非科学的だ。……まあ、広い世界で自分自身を見つけ出すなんて、砂漠で針を探すようなものだろう。」
兄さんはそう言って笑った。
確かに、いきなり自分に会うのはハードルが高いか。
「よし、明日は異世界修学旅行だ!」
俺は仮面を握りしめ、宣言した。
魔法のない世界。
そこには、俺たちが知らない「もう一つの可能性」が広がっているはずだ。




