十八章 壁の中での赤い世界
いつも、恋焦がれてきた光景がある。
目を瞑れば思い出せるほどに過酷な世界。何が起きるかと考えること自体が無駄であり、起きたところで何ができるというものでもない場所。生きていると言う事実こそが、現実とは言い難く、そこでは押し潰されるという現実だけが、当たり前である場所だ。
当たり前のように自然に負けるという現実だけが存在する世界を、ヒサシゲという男は焦がれてきた。
何度も手を伸ばそうとして、それでも届かない世界だった。
上には赤い雲が、下には赤い結晶が、そしてそのあいだには人と地獄が浮かんでいるだけ、東の風と呼ばれた地獄の光景は、今この場に限り人類最後の拠点であるクルワカミネの世界で現れた。
赤い点滅が二度繰り返された後、壁外の全てが変貌を重ねる。
世界の色が赤に侵食されていく。ただそれだけの現象であるが、ここに生きてきた者たちは別の反応を示す。それは変わらないのだ、壁の向こうの世界と、ありとあらゆるものが一瞬にして、台無しになる東の風が溢れ出す。
それがコルグートと言う男が作り出す現象の始まり。その光景を見てポーオレも流石に、あきれた顔をしているが、自分が弾いたもうひとつの理不尽の引き金だ。あれこそが、この世界最大の理不尽であると証明する代物。
彼女は目の前にある現実に、ヒース君死んじゃうんじゃなどと思うが、それでも彼女は静止しようとは思わなかった。無理やりに濃度を上げる万能結晶だが、それはつまりコルグートが無理やり、接触反応を操り結晶を作り上げている事実だろう。
それは全てヒサシゲという男を殺すためだけの無茶だ。何をするのだと、それ以上に何が始まるのだと愕然としてる。
これより数分前までコルグートは、今からやるような無茶を考えてなどいなかった。
だがあのエースの撃墜は、ヒサシゲに危機感を抱くに足るだけの力を見せてしまったのだ。殺す気じゃない、押しつぶして、この世から抹消する決意を持って、敵としてやりあえるものだと。
傍観者であっても、ここに来て彼にだって欲は出る。観客だって舞台の上に上がりたいと思うときはあるのだ。
ヒサシゲの撃墜法、ただ車輪を吹き飛ばすような無茶苦茶であるだけではなかった。
それだけの無茶苦茶をやっていても、彼が狙ったの確実な撃墜だけである。車輪を吹き飛ばしてまで、自分に視線を集中させる事が、ヒサシゲにとって何よりも優先されることであった。
自由が効くとは余裕があるという事、いくつもの操作の中で、ヒサシゲは自分に余裕を作った。何度も機体を損壊させる様な機動を行ったのも、自分というびっくり箱に目を向けさせ続けるため。
ただ彼が行ったのは、無茶苦茶という理不尽の中で、弾け飛んだ車輪を相手の路線に合わせて破壊するというだけの騙し討ちである。種が分かればというが、あの状況下でそれを把握できるエースはいなかった。
目前の驚異があまりにも大きすぎて、気付けるはずがなかったのだ。山に木があるからと言って、疑うものは存在せず、地球に生物がいて気にする者がいないのと変わらない。
大きすぎる形に、小さな驚異が見過ごされるのは、何時だってどこにでもある事だ。これは技量以前の問題だ、これがヒサシゲであったなら見切っていただろう。彼の目は、どれほど感情に揺れたとしても、あくまで平等に判断する。
無機質な瞳は、冷徹に見下ろし判断しただろう。
これはあくまで乗り手の形の問題だ。僅かな驚異すら見過ごせば、次には命を刈り取る世界に、絶対は存在せず変化という形が、その全てを台無しにする。
だから小さいという選択肢などない。気づいたら機体を粉砕しかねない場所に、そのような不平等性など必要ないのだ。動くだけで起きる反応たちが、全て自分の命を奪うために変貌するのだ。だからこそ、彼の目はあくまでも平等に見下ろしている。
開拓者と、それ以外の乗り手の精神性の差は、結局ここに行き着く。
あくまで競技者であるエース達は、命の危険を考慮に入れてしまう。実際入れるべきではあるが、そちらに偏りすぎて、もしもの状況に致命的な欠点を抱えてしまっているのだ。
それがこの世界でのエースの限界、命の危機を見続けたが故に、危機感を鍛え上げてしまった彼らの着地点である。
だからラディアンスが、撃墜シーンを見れなくて当然なのだ。
彼は視界にすら入れていない車輪を操作して撃墜した。見下ろすという特性を持つ彼だからこそできる芸当だが、それがグレイアウト寸前であろうと、揺るがなかったヒサシゲの力でもある。
死ぬまで揺るがない。コルグートは、弟子に対してそう判断を下す。分かっていてもここまでかと、あきれ返る感情があるが、同時に関心すら抱く。
そこまで揺るがないのなら、もう殺す以外では変わらない。そしてそのために手段を選んでいれば、こちらの首が刈り取られる、と。
老い先短い彼だが、ただで首を刈られる趣味は無い。だから盛大にと、まるで異界を作り上げるように、彼はただ宙を撫でた。抑制されるフィルターの中であろうと変わらない、錬金術師としてみるなら、この世界にこれほどの化物は二人といない。
舞台の設定をしているのだろう。同時にヒサシゲの体調がマシになるのを待っているのもある。
弱っているヒサシゲなんていうのは、飢えた狼と変わらない。と言っても弱っていなくても変わらないが、ましに動けるようにではなく、せめて少しでも長続きして欲しいという願いから、コルグートは時間を作った。
その変貌の始まりは、アリスでもしないような大胆な残酷物語。不思議でも、鏡でもいいが、結局は変わらない、大胆を通り越せば大体は壮大に変わる程度の話であるが、それは魔法の物語のように世界を一変させた。
驚愕を通り越して唖然、だがそれが全ての人に行き渡ればひとつの伝説である光景だ。
開拓時代、人の命を奪い続けた赤の形を人が操り、絶望として再現させた。それは小さな声だっただろう、「有り得ない」などと言う、その言葉を否定する為にある言葉が、誰も彼もの口から現れて悲鳴に変わる。
その中で、僅かな者たちが口にする何もかもを台無しにする言葉を使う。たった三人、それだけの数がいること自体が奇跡である状況で、勝手に口にする三人は、その状況を見てもすがることも絶望することもなく、ただそれだけを口にして静かに前を向いた。
「だからどうした」と、絶望する者たちを尻目に、彼らは天下無敵の言葉を口にする。
むしろこれからだと、ヒサシゲは笑い、ポーオレは睨み、ラディアンスは手を伸ばす。だがその道は常に過酷である。命を削るような絶望に身を投じるのなら、そんな状況を一言で笑って乗り越える気概がなくて、どこを目指すという。
人は歪んでいても、常に世界はまっすぐだ。人は常に歪まない世界に歪んだ自分をあたかも狂っているかのように言うが、狂っているのは常に人だ。歪んでいるのは常に人だ。人はすべてが歪んでいるからこそ、真っ直ぐな世界を否定するのだ。
優しい世界はないだろう。だが厳しい世界も本来は存在しない。
ただ真っ直ぐな世界が、当たり前に存在して、その世界に対して歪んだものが、否定を繰り返すだけ。確かにヒサシゲもそうだが、ラディアンスも、ポーオレも、そしてコルグートさえも、人としては歪んでいるのだろう。
そしてそれは世界に照らし合わせても実はそう変わらない。
そこにいるのは歪んだ方向に真っ直ぐな奴らばかりである。ただ真っ直ぐなだけではそんなものだ。だがその歪んだ方向であっても、彼らはその道を誇るだろう。
作り上げられる世界を誰かが戸惑いながらも呟く中で、巌の如き者達は、我を張り通す言葉を口にするだけ。それは真っ直ぐな世界を罵倒する言葉で、歪んだ世界を肯定する言葉でもあった。
別に歪んでいたっていいのだ。認識が狂っていようとさしたる問題はない。
その歪んだ世界が間違っているわけでもないのだ。ただそこに意地があるのか、結局はそれが問題なだけだ。否定してはいけないだけ、そしてコルグートは怯える人々に本当の世界の形を突きつける。
目をそらすのなら、まぶたを切り取ってでも見せてやればいい。それを嫌がるなら眼球を引きずり出してやればいい。
存在だけなら魔王と分からない化物は、世界を作り上げようとしていた。その光景に抱く感情は、全てが山を見上げる感情と同じであっただろう。
だが彼らはさらに上を向く。あの空の色を、山より高い雲を、そして月を、星を、たどり着けないはずの上に、たどり着けると信じる愚か者達だ。蝋の羽で身を滅ぼすをよしとするような者たちは、赤い世界に恐怖ではなく、ただいまとでも呟くように表情を刻む。
誰もが予想を消した世界が浮かび上がる。赤い真実の世界の一つの形が、安寧であるはずの閨に騒乱を持ってくる。
その騒乱の源を、壁外の住人たちは、第七なんぞと呟いた。
コルグートが引きずり出すのは、あくまで幻想の光景であったが、それは触れられて、現実に地獄を作り上げる象徴だ。
第七と呼ばれた緋色の空洞はうつつに現れた幻想だ。その神職はペナダレンを覆い尽くすように逃げ場を塞ぐ。
人々の目を剥く光景は、囁きとともに語られる。ジオドレの開拓史のなかに記される中でも、人々が怯えた難関。
ルート1(サクラメントトレイン)において語られる九つの災害。厄災と呼ばれる難所中の難所。第八と、第九は、そのあまりの不明確さから開拓史に乗せられても理解出来ない分類にあるが、難所という意味では、ここで語られる代物は最も分かりやすく絶大だろう。
正式名称をポイントルックアウト、収容所と語られる第七厄災地点である。
ジオドレの開拓書に語られる中では、理解できない二つを除けば最悪と言っていい難易度である地点であるが、その理解できる範囲の中で不可能の文字を押されている。
結晶に包まれたその場所は道は一方通行、制御を失敗すれば命はなく、道を間違えば二度とは帰れぬ場所。進むことを考える事をやめた時には、すべてが台無しになる場所である。
長い絶望を回り続けて、時間は分からずただ精神だけを消耗させ続けた。ただ前に向かって動いていただけだった。
道はそれでも開けず、帰りたいと後ろを振り返りたかったと、その道を開いたあとに思ったが、ただ必死に私は前を見ていた。
開かれるとどこかで信じた道を選ぶために。
なんて三流詩人でも書かないような代物をジオドレは残している。
こんな男のポエム集こそが、開拓史として残るこの世界の聖書だ。その言葉を信じるのなら、緋色の一本道、ひどく狭い洞穴、後退を許さない何かがある、それを合わせて結論を出すとするのなら。
移動することによる接触反応による通路の閉鎖が存在する、入り組んだ道を持つ洞窟と言うだけの事だ。だが緋色の洞穴という言葉が全てを恐怖に帰る。
純結晶体を彷彿とさせるその難関は、移動の一つのミスすらも許さない。不用意なミスは、ただそれだけで連鎖的な破壊を続け、フィルターの効果にすら干渉を重ねて、フィルターの能力を上回る圧殺を行うだろう。
何より予想でそれだ。要塞列車の心臓部でもある純結晶体は、それだけで莫大な接触反応を行う。不用意に触れればその瞬間四方数百キロを巻き込む、大干渉を行う可能性がある。
そうなれば、さらにそれを上回る範囲の干渉現象を発生させる。こうなれば悪夢の始まりだ。
かつての到達戦争時代であるが、その干渉現象だけで三十近い要塞列車が磨り潰されている。実際はそれを起こしたのは、若き日のコルグートだが、彼は純結晶体を操りそれを行っている。
そして起きたのは、戦争自体を停止させるほどの大崩壊であった。この疲弊こそが今の安寧につながっているのだが、だからこそ人々は不用意に存在する純結晶体に対して恐怖を抱く。何しろその全てが純結晶体であると考えれば、その破壊の力はどれほどのものか。
このクルワカミネ程度の世界であるなら、破壊しつくす何かを持っている可能性が高い。
存在だけで恐怖心を抱かせる難所、誰かが失敗するだけで、ただ人が干渉するだけで、要塞列車という世界に破滅に導くとすら考えられる厄災の地点。
それがルート1の九つの難所、厄災地点の呼び名の由来である。とは言え、それほどの効果を発揮する場所であるかは証明されていない。
本来純結晶体は、ただ触れるだけでも過剰反応を起こすのだ。それがただ接触反応過多な世界で、なんの変質も起こしていない時点で、扱いとしては眉唾もいいところだろう。ジオドレの言葉を信じるだけでは意味がない、何より所詮はポエム集といっても差し支えのない代物だ。
どこまでが正しくて、どこまでが間違っているのか、その結論はともかく、結果として人伝に流されたジオドレの手記は、人々の妄想だけはかき立てた。
その妄想の一つの形が、今コルグートが作り上げた一つの成果だ。それに囲まれたヒサシゲは、流石に呆れてしまう。それは自分が踏破するべきものであったが、このクルワカミネで見るべき物ではなかったはずだ。
ただ外に出るだけだと言うのに、ここまで難易度が上がってしまえば、少々表情が歪んでしまう事になんの不思議があるだろうか。
「ここまで力の差があるか、あの化物は」
「第七って、第七としか思えないけど、なんでここに、もうちょっとなんか、というか無茶苦茶すぎて何から口に。というかもうこの人たち関係は、もう、なんか、なんというか、なんと言えばいいんだよ」
動揺し過ぎているラディアンスは、混乱を象徴するようにでる言葉が全て、意味をなしていない。
それでもまだ、この現状に対して、最大の敵を間違えない辺りは、ある意味才能である。ここまでの状況下で、目先の現実ではなく、本当の真実を目にしている精神は、ヒサシゲの目に似た静かな冷たさを持っている。
これは彼女の生来の物だろうが、これがクルワカミネに本来立つべきだった女傑の片鱗なのだろう。
「これで手加減してるのか、していないのかだな。あの妖怪が、こっち方面で仕掛けてくるとは思わなかった。緩んでいたわけじゃないが、理不尽なぐらいに差がある」
「緩んでいるわけじゃなくて、って、一体どういう方向性を考えてたんですか」
「六割で俺が殺される類の方向性だ。その時はお前も巻き込まれて死ぬかもしれんが、そっち方向じゃなかったようだ」
もう今更自分の扱いについてどうこう言うつもりはないが、そういう可能性じゃなくても十分に今で死ねる状況だ。嫌がらせのように、移動自体を制限させる形で作られた、悪意の一つの形は、逃げ場があるのかもわからない牢獄だ。
確かに想像通りだろう。こんな形を人は確かに想像したのだ。
ポイントルックアウト、そんな名前で呼ばれる場所は、かつての収容所をどこかで彷彿させたのかもしれない。最もだが、かつての資料なんて古典として語られる程度の代物に過ぎないのだが。
それでも想像できる中でも最難関と言われるのには相応に理由がある。大雑把に言ってしまえば、理由が単純すぎて難しいのだ。
第七厄災地点は、ただ狭く入り組んでいて、何よりミスが許されない。壁に触れようものなら、間違いなく接触反応の連鎖によって、機体は磨り潰されるのは確定している。ほとんど可動範囲がな、入り組んだ場所続き精神を削ると言うのに、それが一日以上続くのだ
人の集中力はそんなに持つわけがない。閉塞感の中をいつ終わるともしれず操作し続ける。それも不眠不休でだ。
難所の中でも難しいという理由はここにある。
と言うより、可能と考える方が無理な話だ。こんな過程で絶対にミスしない方がおかしいと言える難易度であり、それを成し遂げたのなら人の技であるわけがないのだが、それ故の厄災地点である。
ただの難所ならこうは呼ばない。ただの災害ならこうはいかない。ただ人々の絶望を納得させる力があるからこその厄災なのだ。
だが実際にそれを踏破したものはいる。
なら出来ないと言うのは、言い訳に変わってしまうのは当然のことだ。そしてなにより、精神的勝負なら絶対に負けはないだろう意地っ張りであるヒサシゲには、ある意味最も楽な分類だ。今までの行動を鑑みれば、絶対にありえないと思うだろうが、ヒサシゲは我慢強いと言うより、そのあたりの能力がまともじゃない。
何度も揺るがないと語ったのは、それがある意味ではヒサシゲにおける問の解答であるからだ。
貧弱な肉体と不釣合なほどの精神力は、自身を一つのシステムとして扱うことぐらいためらいのない代物だ。コルグートは狙ってやったのか、やっていないのか、ヒサシゲにとっては一番楽な分類の行為をしてきたのだ。
最もそれだけで済むとは考えづらいが、赤い洞穴はペナダレンを囲い。さあ動けというように鳴動を始めた。それは接触反応の第一段階と言いたいが、これは単純に空気のが流れによる微細な接触反応に過ぎない。
一度動けば、広報に流れる空気の干渉によって、過剰な反応を起こす事により、後方がただの針に埋め尽くされる類の変化をヒサシゲは感じる。
「根本的には度胸試しだ。こういうのは得意なんでどうにかなる」
「どう考えたって得意とかじゃなくて、何もかもを壊しながら移動するくせに」
「繊細な動きを要求されるというのに何言ってるんだ。ちょっと技術が必要すぎるチキンレースってのが、この本質だ」
追い立てられながらギリギリを見切っての移動をするだけ。
それだけの難しさは、単純だからこその極地である。針の穴を通す作業を、一万を超える数をミスをせずにこなせばいいだけだ。
しかし言うは易くと言うが、ここまで分かりやすい証明もないだろう。
「だったら真正面から向き合ってぶち抜けばいいだけだ。チキンレースの勝ち方ってのは結局生きて、相手より上を行けばいいだけだ。奈良老い先短い妖怪じじいが、こっちに勝てるどおりなんかあるか」
「妖怪なら老い先短いなんてことはないと思いますが、そのあたりはどう思っておりますか。いい加減に、あなたの言葉は勢いだけで言ってるって気づいているんですよ」
「だったら分かりやすいだろう。勝たなきゃ進めんのなら、そうすりゃいいだけだ。たかがあの世界のレプリカだろ、だったら人の想像の枠に収まる厄災なんかは所詮ハッタリだ。俺の敵はウーデットニーと、リザベーションだけってことだろ」
強がりでもあった言葉だが、気負わない男の言葉は常に心の芯に響く。
揺るがぬという意味を何度も彼女に突きつけながら、ただ深く一度目を閉じて、最も彼が得意とする操作を行う。視線操作、全てを見下ろすというヒサシゲの操作の根幹である。
本来一番難度が高いとされる操作だが、それは恐怖で目を逸らすもの、逃げ出すように目的地を視界に入れない者たちの戯言だ。
これほど彼の性格にあった操作はない。
恐怖で目をそらすような奴ではないのは、今さら語る必要もない。チキンレースと言った以上、やることはただまっすぐ突っ切って気概を見せるだけ。
道を開くように目を開けるヒサシゲは、これから少しの間だが、瞬きすらもどかしい時間を過ごす。今までの日ではない操作を行うのだ。
彼を急かそうとする振動に黙れと言いながら、心臓の鼓動をペナダレンの起動と合わせていく。
脳であり心臓であるヒサシゲは、最重要機関としての形を作り上げながら、世界を俯瞰し続ける。世界の広さも、己の小ささも、全部を受け入れても、世界は何一つ変わらない
ただ変えるために自分がいるだけとでも言うように不遜に鼻を鳴らした。
「だったら、真正面から踏破してやるさ。元々、それ以外のや利用なんてのはないんだよ。なにせあっちは真っ直ぐで愚直だ、やることはどっちも同じだろう」
「なら止まってないで、さっさと行くんですよ。止まっている理由なんてもう無いでしょうに」
「ま、そりゃそうだが後輩、先達として一つ言っておく。俺はさっきので死にそうなんだよ、視界ガタガタで今動かしたら確実に失敗するからもうちょい待てない」
精神で覆そうとしても三半規管が役にも糞にも立たない。
しかしポーオレはそれを鼻で笑う。
「何を言ってるんです。西が待ってくれるんですかあなたの体調を、そんなものあっちが構うわけがいなら。時間稼ぎなんて無駄なことしないでください」
「失敗するとこのクルワカミネが色々とありえない事になるが」
「失敗する気なんかないでしょう。私もお預けばかりでされているんです。他人の棺桶で殺されかねないんですよ。そろそろ耐えられなくなってきます」
お前の都合なんてのはどうでもいいと、むしろこうやって背中でも押すように、ラディアンスはヒサシゲの無様を笑う。
確かにそうだと思いながらも、ヒサシゲは改める気はないようだ。
あっちは確かに都合よく待ってくれたりなどしないかもしれないが、休めるその機会を逃すのも馬鹿の手だ。これに関しては二人の感性の違いに過ぎないし、何よりどちらが正しいということもない。
正直に言って、どちらも正解であり不正解であるのは間違いない。
「余裕がないな。現状を楽しめって」
「これだけ振り回されて私もわかったんですよ。状況を変えるのは、周りじゃなくて自分がいいって」
「至言だ。だが、自分の状況は自分しか変えられないとは思わないか。ならいつ動いたって変わらない」
意見の相違だが、ラディアンスはヒサシゲの言葉を受け入れない。
なぜなら彼女は、生来からそういうふうに育てられてきた。状況を変え続ける権利を常に手にしてきたのだ。ヒサシゲのように場を乱すのではなく、場を整えるためではあったが、その気質が変わるわけがない。
人を焼き尽くして残る骨の部分が彼女はそこに当たるのだ。
何もかもの状況を動かすという独占欲を持つ。世界で遊ぶ精神性の一つだろう。ヒサシゲ自身、彼女の言っていることを理解できる。自分の行動で何もかもが、変わる快楽を彼は知っている。
そのことを自覚し口にしたほどだ。だが本質は狩人に近いヒサシゲは、息を潜めて確実性を取るが、成果を得るためのリスクを加味しない。何より自分の状況は、作り上げるものであると彼は考えているが、あくまで自分の為であり、他者を入れることはない。
その性格は、かたくなにポーオレを断るところからもわかるだろう。あくまで自己以上の考えをしない。産れの所為もあるだろうが、壁外の性質は個人主義である。何より開拓とは一人と愛機と赤い大地しか存在しないというシビアな考えがある。
その考えを、肌身で感じて生きてきたものとの価値観の差だろう。
「それでも変えられる状況が、自分の手にあるのなら。私は踏み込みたいと考えます」
「そのあたりは考え方の違いだな。正しいなんてのはないんだ、お前の開拓はそれでいけ、俺の開拓はこう行く」
どちらが正しいのかではなく。たどり着いた方が正しいだけだ。
そう告げるのは年長者のヒサシゲだ。体調を完全に崩しているはずなのに、随分な軽口だが、どこか弾んで聞こえる声に、少しの疑問をラディアンスは抱く。
ヒサシゲは今までシビアな人間だとどこかで思っていたが、何でこんなにも余裕があるのか。
「見てみろよ。まだ、俺は一歩も外に出てないのに、望んだものが目の前にあるんだ。楽しませてくれたっていいだろう」
そして彼女は納得する。つまりはそういうことかと。
ヒサシゲはただ浮かれているのだ。彼はずっと望んでいた、必死になって西を目指し続けることを、あの世界に恋焦がれてきた。ポーオレという女が嫉妬を抱く程度には、そしてこんな状況を作り出させる程度には、彼はあの赤い大地に魅了されていたのだ。
ずっと望んできたのだ。まがいものだったって変わらない。
東の風を受ける帆船は、ずっと西を目指しているのだ。今までその土俵に上がれなかった男は、自分の道があの大地に続いている事実を何よりも喜んだ。
踏み出す一歩を、その一つ一つを彼は、水たまりで遊ぶ子供のように喜んでいるのだ。
だからその一歩目を楽しませてくれと、閉じた目を開けても、広がる世界を見渡していたかった。世界の広さを見下ろして、世界の果てのなさを見渡して、彼は初めて自分の立ち位置を理解した。
世界に挑む無謀さを知って、踏み出す一歩を楽しむために、今までの自分の歩みから決別して、これからの歩みを始めるための準備をしている。
「まがい物だってわかっちゃいるが、それでも笑えてくる。ずっとだぞ、ずっとここに来たかったんだ」
「それでそんなにも、浮かれてしまえるのですか」
「ああ、だが正直に言ってこの歳で、この無様はなかなか笑えないとは思う。それでも、浮かれるのも打ち止めか、状況を動かし始めるとするさ」
まるでペナダレンのために誂えられたような空洞。動かないヒサシゲに業を煮やしたのか、コルグートは一度そこに風を通した。
その瞬間、接触反応を起こした洞穴は、がきんがきんと歯車が動き出すような音と共に、洞穴楔を立てる。可動範囲を狭めるような難関をが次々と隆起しながら溢れていく。
「それにあの程度なら、厄災地点としては二流だ。所詮は人の知恵の中の産物に過ぎない」
「つまりは人の悪意で如何様にも変わるということですよそれ」
「だから言ってるんだ。人の悪意なら、こっちの悪意で潰せるだろう。その対策ができないだけで、随分と怖いものだろうが」
それにだ。折角のまがい物とはいえ赤い大地。
ヒサシゲはその片鱗の一つでも味わおうと、わざと難易度を上げたフシがある。この男はリスクジャンキーという訳ではないが、赤い大地に関しては、確実に稼が外れている。
自分を追い込むことに躊躇いはない。と言うよりも、その事実をリスクとすら考えていない。今までの機動もそうだが、彼は基準をすべてあちら側に置いてきている。だからこそ、あちらと違うなら自分の命で帳尻を合わせているのだ。
多分であるがその事実にラディアンスは気付ない。その代わりに彼女もこれから先には、同じようなものになるだろう。ただ傍から見るポーオレだけが、ヒサシゲという人間を冷静に見ているのだ。
そして擬似的とは言え、ヒサシゲを赤い大地に上げる事がどういう事か、今はポーオレですら予測がついていないかもしれない。
この世界で何より西に近い男の本領など、誰も予想し得ないものであるのは、否定し得ない事実である。
敵対すると言うのではなく。抑圧された男の本性を見る事が出来る機会は、今まではなかったのだ。どこまでも自由であっても、この世界にあっては不自由な男であったヒサシゲは、押しつぶされる様な閉塞感を、この場所では拭い去っていた。
浮かれているのでなく、もしかしたらだが、軽くなっているのかもしれない。いままで存在していたあらゆる重みが、赤い大地というレプリカの中で解放されていたのなら、このどこか締りのない表情も、緩んだ言動も、本来のヒサシゲの姿なのだろう。
しかしヒサシゲは、そう甘い精神構造をしている男でもない。
天性の嫌がらせの素質を持つ男と言うのは、誰もの思惑を覆す部分にある。決して自分以外の利益など存在しない、あくまでそれはヒサシゲにとっての自然体であるが、その緩みが弱さにつながることなどありもしない。
開かれた目から覗く世界は、常に広大だった。今この一瞬、箱庭にあってもこの場所だけは、雄大であった。だから初めて彼は体を精一杯に伸ばすことができたのかもしれない。
「じゃあ行くか」
だからそんな何気ない言葉が重かった。
近所に買い物にでも行くような軽い口調で、彼は死地に踏み込んでいく。誰も止められないとわかるほど、ゆったりとした動き、本来であるなら結晶操作によって最大加速まで上げるのが常道の中で、ペナダレンはひどくゆっくりと動き出した。
静かな世界に車輪の音が響く、赤い世界にその音が響く。
後ろから迫り来る絶望の東の風を追い風にして。
狭い黄泉路の道を、列車は音を立てながら動き出した。
ほかの厄災地点の名前は、第一はアンドリュー、第二はトレイルオブティアーズ、第三はロングウォーク、第四はサンドクリーク、第五ウォルシタリバー、第六シヴィルウォー、第七はポイントルックアウト、第八がリザベーション、第九をウーンデットニーとなっている。悪意しかないチョイスですが、わざとです。




