じゃぱにーずでぃくしょなりー
1
俺は辞書が大好きだ。あの分厚さ、香り、重厚感、肌触り、辞書特製の薄い紙をめくる音。そのすべてが愛おしい。辞書ソムリエの名は伊達じゃあない。いくつもの辞書を吟味してきた。時には舐め、咬み、味わった。そのぐらい好きだ。アウトローな俺の語彙力をここまで高めてくれたのは間違いなく辞書だ。アイ!ラブ!辞!書!
世界の中心でそう叫びたいぐらいだ。もちろん比喩ではない。なぁ、おい、聞いてんのかよ。
握りしめている鉄製のパイプで思い切り太腿を突く。刈り上げるところがもうすでに残ってないぐらいまで刈り上げた不良生徒がうめき声をあげる。早速俺は辞書で「呻き」を引く。俺は素早い。パラパラと紙が右から左に滑ってゆき、すぐに目的のページが俺の目に差し出される。
「うごぉ…。はい、聞いてます!すみません。」
俺はこの語彙の欠片も無さそうなバカに懇切丁寧に今引いた言葉を解説してやる
「1 苦しみや痛みなどのために出す低い声。2 動物が威嚇などのためにほえる声。だそうだ。おい、俺に威嚇してんのかよ?あぁ、お前猿みたいにキーキーうるせぇし、動物みたいなもんだな?」
今度は鉄パイプではなくこの十分に重量を含ませた辞書で項垂れている頭を殴りつけてやる。
ボグッ。ミシッ。
音にするなら2つのこんな音が辞書とバカの首から同時に出た。
そしてそのまま相手は横に倒れ、動かなくなる。
「うーん。実に文学。」
倒れたバカを見て、俺は気の利いた一言をまぶしてやる。
もとはと言えばあっちから売ってきた喧嘩だ。
文学の名のもとに成敗されるのも仕方ない話よ。
ペラッ
喧嘩をした路地裏から大通りに出ようとする。が、その時、目下には辞書が置いてある。いや、投げ捨てられているといった風貌でたたずんでいる。その割には表紙の革は全くと言っていいほど草臥れておらず、今まさに書店から買ってきてそのまま置いたといった具合。拾い上げてみるとなんだ、広辞苑じゃないか。俺が初めて手にした、思い入れのある、もはや帰属意識すら感じる辞書だ。愛ゆえだ。ページとページの間に住みたい。文字と文字の間には寝袋を敷き詰めて、行間には辞書を詰め込もう。インテリアはどこに飾ろうか、ああ、その、『葵』には引っ掛ける場所がたくさんありそうだ。辞書の中に辞書とは、全く文字の海ではないか。
ザラリとした質感が俺を現実に戻す。なんだ、これ、広辞苑じゃないな。俺は何千冊もの辞書を見て触って味わったからこそ分かる。これは明らかに広辞苑に似て非なるものだ。宝箱に化けたモンスターを思い出す。ガバッと本が開き俺を貪る気がしてくる。
が、いつまでたっても開いて襲ってくる様子はない。
そしてもう一つの気づきがあった。目を細める。表紙の「広辞苑」のうえに小さく小さくふりがなのようなものがふってある。なになに、もっと近寄って読んでみる。「ひろ、じ、その?」なんてことだ!広辞苑だと思って拾った辞書は、漢字こそ同じものの、(ひろじその)じゃねぇかよ!
誤解しないでほしいがこれは怒りなどでは断じて無い。好奇心と喜びだ!まだ世の中には読んだこともない辞書があるのだ!喜びのあまり齧りつくようにして読む。
ペラッ
家の鍵穴に鍵を差し込む。そのまま右方向に90度回転させる。構造がどうなっているのか知らないが複雑な手順を踏んで解錠されているに違いない。流石の辞書も鍵の仕組みまでは図解していなかった。まぁそれはそうか。
「ただいま。」ぶっきらぼうに言う。
キッチンからは「おかえりなさい〜」と間延びした声が聞こえてくる。
不良の子は不良、というわけでもなく、父母ともに、とてもまったりとした、平和主義の夫婦だった。
「今日の晩ごはんはスパゲッティだから。あと二十分くらい待っててね。」
分かった。短く告げて部屋に籠もる。
「ひろじその」を開く。この辞書はとても変だ。言葉に対して、全くと言っていいほど的外れな説明が載っている。
これを読んでいる読者にもわかりやすく説明するなら、試しに、机の上においてある、北海道旅行の時にお土産で買った置物の、「シロクマ」と引いてみよう。するとだ、「夏至に都心を中心に自然発生する生き物。両翼を使い、自由気ままに飛び回る。肉食である。」と出てくる。全くもって意味が分からん。
なぜシロクマが都心に?両翼で飛び回る?肉食、、、はその通りだが。
なんだか的外れだな。
他のページも捲っていくが、次々意味の不明な説明があいうえお順で記載されている。
規則性はないのか、調べようとしたところで階下から母の呼ぶ声が聞こえた。
ペラッ
赤いミートソースをふんだんに麺に絡ませてから、フォークで巻き取る。そのまま一般的な一口にはやや多いくらいのスパゲッティを素早く口に放り込む。せっかくだから「スパゲッティ」の意味を調べようと、膝の上に置いてある辞書を引っ張り出したところで母から、「こら!食事中に辞書早めなさい。」と、普通ならスマホやテレビを注意されるところを辞書で注意された。無言で辞書を下げる。
「ねぇ、制服が汚れてたんだけど、もしかして今日も喧嘩したの?」スパゲッティを巻きながらほとんど確信しているのに質問してくる母を見る。母もスパゲッティを巻きながら、その丸い目だけはこちらを注視している。
「知らね。」
スパゲッティを平らげて皿をシンクに置き、水を皿いっぱいに満たす。と言っても平皿だから数秒で飽和するのだが。
「もう喧嘩しちゃだめだからね。これで許すのは最後だから。」まだリビングで食べている母からの忠告を聞き流す。たしか前も、その前も、最後、と言っていた。辞書で「最後」の意味を教えてあげたいぐらいだ。
ただ辞書を引かずとも「優しさ」は俺も知っている。
母なりの優しさの溢れた忠告なのだろう。
聞き流そうとしたが、「分かったよ」と返事だけはする。そしてなるべく喧嘩しないように、気をつけるとしよう。母の頼みだ。
ペラッ
俺は絡んできたカスをぶん殴る。
「何度も懲りずに絡んでオレに負ける。そしてオレは面倒に面倒をかける。そういうヤツのことを何ていうか教えてやろうか?もちろん意味付きでな。鬱陶しいっていうんだよ。」
鞄の中に入っている辞書を取り出す。「えーと。」
うた、うち、うて、通り過ぎたな。あ、あったあった。
意味は二つあるが俺の気持ちを表すならこっちだな。「不可視の力が働く現象。例、何もしていないのにコップが割れる。ものが浮き上がる。別名ポルターガイスト現象ともいう。」
は?なーにを言ってんだこの辞書は。言ってるというか書いてある、か。
ひっくり返して表紙をみる。あ。手触りが妙だと思っていた。これ「ひろじその」じゃねーか。似てるから取り間違えたのか。にしても変な辞書だ。「お前も変だと思うよな?」ノビてる不良に声を掛けるが、ウンともスンとも言わないので俺は思わず肩を落としてスンとなってしまう。
一体これはなんなのだ。よくわからないものを拾ってしまったな。俺が辞書を好きなのは、正しく美しい文字が宝石店のごとく綺麗に並べられているからだ。もはや文字とは展示品なのだ。それに比べて出鱈目な辞書は好きじゃない。が、本の形をしている以上、捨てるのも忍びない。
モヤモヤとした引っかかりが心に絡まり始めた。出鱈目ってどういう意味だっけか。ほかに意味はなかったか、オレは正しく使えているのだろうか。調べたくなってしまう。どうせてきとうな事がかいてあるだけなのに、クソ!
た、でき、でた、「出鱈目」①鱈の一種。目玉が金魚のように飛び出ており、人が近づくとたちまち、破裂する。一般家庭で飼育されている。
「そんなわけない」と言う気すら失せた。口半分まで開きかけるが口を閉じる。気だるくなってきた。
ペラッ
悪寒で震える。
カタカタ、と小刻みに震える。秋とは言え今日は暖かい方なのに、だ。辞書が近くにない。いや、あるといえばある。ただ全くと言っていいほど辞書の役割を果たしていない。そんな辞書を近くにおいておけば震えも当たり前に出てくる。
「おーい中村、どうした?体調でも悪いのか?」
教師の一言でクラス中の人間が俺をみる。「いえ、大丈夫す。」
「ならいいんだけど。」
生徒の深いところまでは踏み込まない淡白な教師だ。
さて、と黒板と対面する教師。
「前回は『こころ』を読んだな。長い話で途中で寝たやつもいるんじゃないのか?まあそんなことはよくてだな、これから読み深めていく前に、出てくる単語を理解してもらう。みんな、前回アナウンスしたが、辞書は持ってきてるな?」
チクリと胃が痛んだ。
「今からプリントを配るから、この単語の読みと意味を各自持ってきた辞書で調べてくれ。」
一番前の席にその列の人数分のプリントが配られる。前からプリントが送られてくる様子は波が押し寄せてくるのに似ていた。俺も前から受け取り、後列の人に渡す。そのプリントには難しいとされる単語が十語程度書かれており、その単語の右と下には読みと意味を書くために空白になっている。
周りは早速取り組んでいる。
「あまりここに時間取りたくないから、なるべくぱぱっと調べちゃってくれ。」
と呼びかけているがこちらは冷や汗をかく。
辞書を引くしかない。どうせまともな意味は載ってないがこの際、どんなデタラメが書いてあるのか見てみるのもいいだろう。
「絢爛」①メガネのこと。そのレンズを通して世界を見るとき普段と違うものがみえる。
そんなわけない、とはもう言わんぞ。次。
「玲瓏」電車に巣食う悪魔。特に害はない。
ついに辞書っぽくもなくなってきている。
「歴然」亀に化ける宇宙人。世界征服を目論む。かなり非力
「もうま、」
ん?なんだ?
調べようとしたところで左に影が突如として現れた。急だったものだから、太陽が雲に遮られ、教室に陰りをもたらしたのかとも思ったが、そうではなかった。
教室の水槽にクソデカい魚が頭から水槽に突っ込まれている。一メートルはあるだろう。
勇者の剣が岩にささっているみたい。
クラスメイトもザワつく。
「え、何この魚。でかすぎるでしょ。」「誰が入れた?」「いつのまに?」「やべー写真撮ろうぜー」「近づかないほうがよくね?」
そこで教師も魚の存在に気が付き、ざわめきの中、水槽の前に立つ。
「これさっきからいたわけないよな?イタズラか?よく気が付かれずに入れられたな。で、誰が」
振り向き、生徒全体ににしゃべりかけている途中で水槽から破裂音がした。
魚が、ガスが入れられたように二倍三倍に膨らみ、弾けた。水槽もろとも弾けた。ドッパン、バリン。文字に起こすならこんな音が鳴った。
教師が教室を横断するように吹っ飛び、千切れた耳が俺の方に降ってくる。
ドチャ。
ペラッ
救急車が学校を去るのと同時に俺も学校から帰ることとする。辞書のせいで体調が悪い。
教師は外傷こそ酷いものの、意識はあり、命に別状はないとのことだった。耳もきれいにつながるらしいと聞いて安心した。あいつは結構気に入ってるから死なれるのは嫌だ。
それはそうと、あの魚はなんだ、爆発する魚なんざゲームの中でしか聞いたことがない。
そうこう色々と考えているうちに、電車がホームに進入してくる。俺はいつも電車通学なのだ。乗り換えがあるのが面倒だがそこまで遠いわけでもない。もう今日は家に帰ってゆっくりするか。
が、そこでも問題が発生する。扉まで人がぎゅうぎゅうに詰まっている。
平日の昼間なのだからそこまで混み合うことはないはずなのたが、今日は何かあるのだろうか。
扉が開いた後、人が飛び出るように電車から出てくる。時に悲鳴も混ざりながら、皆改札へとつながる階段へと駆け込んでゆく。
何だ何だと電車を覗いてみると、何と何と、黒く禍々しいオーラを放った怪物が大人しく膝に手を乗せ、座席に座っていた。降車の波に呑まれて降り遅れていた老婆に「あれはなんだ」と尋ねる。
したらば、老婆は見た目の割にはしっかりとした声で怪物を指差しながらこう答えた。
「あいつがいきなりいたんだよ。気が付いたらなの化け物がいたんだ。」
「いきなりいたってなんだ。どこかの駅で乗ってきたんじゃないのか?」この声が聞こえたのか車内の化け物が、ぎょろりと目玉の方向をこちらに合わせ、俺を見てくることに気がついたが、それ以上のことをする気配もない。
「いいや。さっきまでは確かにいなかったのに、いたんだ。」
「何か危害を加えてきたのか?」
「いいや。でもきっと悪い奴さ。」
「なるほどな、ありがとう。おばあちゃん。」
電車に巣食う、悪魔、無害。
「まさか電車に乗るのかい?」
「うん。」
「やめときなさい!食べられてしまうよ。」
「いいや、あいつは無害だ。辞書にそう書いてあったんだ。」
ずかずかと車両に乗り込む。
それと同時にドアが閉まる。
扉越しにおばあちゃんが心配そうな瞳を向けている。
俺はあえて化け物、いや悪魔の反対側に座る。
そして目を瞑り、思い返す。
さっきの魚は鱈で、こいつは悪魔だ。
あの辞書は読んだものを現実にするとか予言とそういう力を持ってる辞書なんだろう。
自分で言っていても何を言っているのかはよくわかっていないが分かったところで分かったことが分かるだけだとおもった。
ふと左の座席を見ると、眼鏡がおいてある。あぁ。そういうことなんだろう。あの眼鏡は掛けないほうが賢明そうだ。ただ何か忘れている気がする。思い出せない。
ペラッ
結局、四駅先の駅に着くまで、悪魔が何かをするということはなかった。俺が降りる大きな駅で入れ違いで通報を受けてたのか、駅員が乗り込んできたがその後までは見ていない。
青羽駅を降りたところで外がざわついていることに気がついた。今度は何だ?と疑問を手に持ちながら駅のタイルを素早く蹴る。
前からは血を出した人や、肩を担がれている人に、片足のない人間が、駅構内へ押し寄せてきている。
何だ、何か違和感がある。あとまだ現実に顕現していない単語はポルターガイストか非力な宇宙人だけではないのか。と、同時に背後の悲鳴が耳を痺れさせる。何だ!ものが浮いたぞ!キャアア!
振り返って確かめると駅に併設されているコンビニの商品が浮き上がっている。
あぁ、これであと宇宙人だけではないか?
と階段を駆け下り、ロータリーにでたときずっと持っていた違和感がさっぱりとしたと同時に、体の底から、恐ろしさがアタマのてっぺんまで押し上げてくる。
あー終わった。
ちょうど逃げ遅れたであろう体を食われる直前であろうサラリーマンが叫ぶ。
「頼む、やめてくれぇ!」
なんで今まで思い出せなかったんだ!普通でも勝てるわけがないのに羽根まで生えてやがる。
そこで、上空に輪を描きながらのびのびと優雅に遊泳している羽根つきの群れの一匹がこちらへ向かってくる。
そうだ、シロクマだ。
おおきな口がひらかれて、手に持っていた辞書ごと噛み千切られることがわかる。
ベリッ




