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王太子殿下、逃亡。  作者: 花日


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60.ギルバートの身に起きたこと

 部屋に通された副隊長は、その場で膝をつくと、深々と頭を下げた。


「殿下をお守りできず、申し訳ありません……!」


「その話は後だ。何があった?」


「はい。事が起きたのは、ヴァルネ軍と衝突したときです――」


 副隊長は、そのときの状況を語り始めた。


「ギルバート殿下が率いておられた我々別働隊は、峡谷で敵を混乱させた後、敵の後方へと回り込みました。本隊を挟み撃ちにし、確実に仕留めるためです」


「ああ。敵の数はどうであった?」


「はい、おおよそ千五百というところでしょうか。松明の数ほど多くはありませんでしたが、それでも、麓で戦っていれば、討ち漏らしがあったでしょう」


「……山中で待ち伏せたのは、正しかったということね」


 マリアベルが呟く。その声には、先ほどまでの動揺が薄れ、落ち着きが戻っていた。


「はい。そして敵の後方へと回り込んだ我々は、指揮官が乗っているとおぼしき馬車を認め、攻撃を開始しました」


 指揮官を潰せば、敵はますます混乱する。戦術として妥当な判断だった。


「攻撃を始めてすぐに、馬車から身なりのよい男が転がり出てきました。後にヴァルネの王太子と判明した男です」


「王太子? では指揮官はヴァルネ王ではなかったというの?」


 昨日報告に来た若い兵も、馬車から飛び出してきたのは若い男だったと言っていた。


「馬車はそれ一台でしたが、王が乗っていなかった可能性もあります。しかし、捕らえた敵兵の中にも、王と思われる人物はいまだ見つかっていません」


 ――おかしいわね。王太子を馬車に乗せて、自分は馬で移動していた? あのヴァルネ王が?


 ヴァルネ王は、なかなかに恰幅のよい男だ。足場の悪い山中を馬で進む姿など、マリアベルには想像もつかなかった。


 そういえば、ルシアンも王には会えなかったと言っていなかったか。


「それで? 何があったのだ」


 マリアベルが考え込んでいると、王が副隊長に先を促した。


「はい、馬車から転がり出た男が、自分はヴァルネの王太子だ、すぐに攻撃をやめろと喚き出しまして……」


 副隊長は困ったように眉を下げた。


「ならば武器を捨て、おとなしく投降しろと、ギルバート殿下がお応えになったのですが、相手はそれを拒んだのです」


「はあ?」


 王が呆れたように声を漏らした。


「攻撃はするな、投降もしない、そんな理屈が通るわけがなかろう」


「その通りです。ギルバート殿下も同じようにおっしゃいました。すると男は、そばにあった荷馬車に近づき、樽の口を開けて見せたのです」


「……なんだったのだ?」


「火薬です」


「なっ……!」


 王が驚きの声を上げた。


「まさか、それで……?」


 マリアベルが息を呑んだ。


「はい。ですが、男も、本気で火を点けるつもりはなかったと思います。我々はギルバート殿下の指示で、弓矢による攻撃に徹していました。火を点ければ、我々よりも火薬に近い位置にいる敵兵の方が危険にさらされますから」


「では、なぜ?」


「男が点火具を持ち出しまして……脅しのつもりだったのでしょう、火薬の近くで火花を飛ばして見せたのです」


「なんてこと……」


 マリアベルは頭を抱えた。


 木や服、紙などに比べ、火薬ははるかに引火しやすい。ほんの小さな火花でも、条件がそろえば一瞬で燃え上がり、爆発を引き起こすことがある。


 脅しのつもりで火花を散らしただけだったとしても、爆発を引き起こすには十分だったのだ。


「火花が散ったのを見た瞬間、ギルバート殿下は我々に退避を命じられました。ですから、我々は爆発に巻き込まれずに済んだのです。しかし……」


 副隊長はわずかに言い淀んだ。


「爆発の衝撃で頭上の崖が崩れ、大きな岩が次々に落ちてきたと思ったら――その直後、足元が大きく揺れ、地面が崩れたのです」


「そうして崩れた地面にギルバートが落ちた、と……」


 王は小さく息をついた。


「はい……。申し訳ありません……」


「ねえ、昨日の兵は『地面が割れた』と言っていたけれど、実際には崩れたの?」


「……そうですね。地面に亀裂が走り、次の瞬間、地面が崩れて真っ暗な穴が口を開けたんです……。見た目には、割れたように思えたのかもしれません」


「道全体が崩れたのではないの?」


「ええ。まるで落とし穴でもできたかのように、地面の一部だけが崩落しまして……」


「そう……」


「その穴の中は捜索していないのか?」


 王が眉を寄せた。ギルバートが落ちた穴がわかっているのなら、そこを捜索すれば見つかるはずだ。そう考えるのは、至極当然のことだった。


「それが……落ちてきた大岩が穴を塞いでおり、中に入れる状況ではないのです。何か反応がないかと、隙間からロープを垂らして呼びかけてみたのですが、返事もなく、ロープを引く様子もありませんでした……」


 反応がなかった。その言葉に、マリアベルは顔を強張らせた。


 しかしすぐに何度か小さく息を吐き出すと、落ち着いた声色で尋ねた。


「他に地面が崩れた場所はないの? そこから救助できるかもしれないわ」


「いえ……確認できたのはその一箇所だけです。もしかすると爆心地の辺りも崩落しているかもしれませんが、あの辺りは崖崩れの土砂で埋まり、通行することさえできませんでした。我々は猟師道を通って峡谷を抜けましたが、それもギルバート殿下が目印をつけてくださっていたおかげで……」


 副隊長は唇を噛み締めた。


「そうか……。常に準備を怠らぬ、彼奴らしいな」


 王はぽつりと呟くと、痛ましげに目を伏せた。


「……穴を塞いでいる岩、どかせないの?」


 マリアベルは歯を食いしばり、溢れそうになる涙を必死にこらえた。


「難しいかと……」


 副隊長は小さく首を振った。


「人の手で動かせる大きさではありませんでした。爆薬を使って岩を爆破する方法も考えましたが、爆発の衝撃で周囲まで崩落すれば、穴そのものが土砂に埋もれてしまう恐れがあります……」


「そう……」


 それ以上、言葉が出てこなかった。マリアベルは視線を落とし、黙り込んだ。


「……今、レオポルド様がなんとか穴に入ろうと、少しずつ岩を削っておられます。殿下の命を繋ぐための水や食糧に加え、薬や治療に必要な道具も穴の中に投げ入れました。きっと、きっと殿下は無事にお戻りになります……!」


 副隊長は目を赤くしながら、拳を握りしめた。


「ああ、そうだな。きっとすぐに吉報がある。私たちも、できることをしておかねばな。ギルバートが帰ってきた時、何もしていなかったと呆れられてしまうぞ」


 王はマリアベルの肩を叩いた。


「もうすぐ捕虜が来る。扱いも決めねばならんし、ヴァルネ太公に連絡も取らねばならない。手伝ってくれるな?」


「はい……」


 仕事に没頭すれば、この押しつぶされそうな胸の痛みを、少しは忘れることができるかもしれない。


「捕虜の受け入れ体制を確認してきます……」


 ――ギルバートは絶対に無事に帰ってくる。


 そう何度も自分に言い聞かせて、マリアベルはおぼつかない足取りで、王の元を辞した。


 その後ろ姿を、王と副隊長は痛ましげな眼差しで見送った。



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